醍醐寺

[spp]

基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


0

種類 寺院(真言宗醍醐派)
アクセス 京都市営地下鉄醍醐駅から徒歩13分。京阪バス醍醐寺下車すぐ。→詳細
概要 醍醐寺は京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗の寺院。
背後の醍醐山を含めて広大な敷地を持ち、山上の上醍醐、裾野の下醍醐に多数の伽藍が建ち並ぶ。また、古くから桜の名所として知られ、豊臣秀吉が盛大に開いた「醍醐の花見」は特に有名。
建造物では金堂、五重塔、清瀧宮拝殿などが国宝で、国宝・需要文化財に指定されている寺宝も多い。
1994年(平成六年)には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
見どころ 金堂五重塔三宝院霊宝館清瀧宮拝殿薬師堂如意輪堂開山堂
拝観時間 9時~17時(12月第1日曜日の次の日~2月末までは9時~16時)
拝観料 三宝院→600円、伽藍(金堂など)→600円、霊宝館→600円、内2ヶ所共通→1000円、3ヶ所共通→1500円、上醍醐→600円。
サイト https://www.daigoji.or.jp/
住所 京都市伏見区醍醐東大路町22

[gad]

醍醐寺の見どころ

金堂

926年(延長四年)に建築された最初の堂宇は1295年(永仁三年)に焼失し、再建されたものも1470年(文明二年)に燃え、その後長らく再建されることは無かったが、1600年(慶長五年)に豊臣秀吉が紀州湯浅の満願寺から移築させたのが現存する建物。
正面七間側面五間、入母屋造本瓦葺で、平安時代末期の建築とされ、内部には同じく満願寺から移した鎌倉時代の作の薬師如来像、両脇侍像を安置する。薬師三尊像は重要文化財、建物は国宝に指定されている。

五重塔

金堂の右手に位置する約38m(相輪13m、本体25m)の塔。
951年(天暦五年)の完成で、境内はもとより京都府内で最も古い木造建造物とされ、国宝に指定されている。
初層の内部には両界曼荼羅と真言八祖像が描かれているおり、建物とは別にこちらも国宝に指定されている。

三宝院

醍醐寺の塔頭のひとつで1115年(永久三年)に醍醐寺第14世座主勝覚僧正により創建。
唐門、表書院は国宝、他の多くの建物も重要文化財にしていされており、本尊は快慶作とされる弥勒地蔵菩薩で、重要文化財に指定されている。
前面には豊臣秀吉が花見のために醍醐寺第座主義演に命じて造らせた庭園がある。

霊宝館

醍醐寺に伝わる寺宝約10万点以上を収蔵する宝物館。
上醍醐の薬師堂本尊薬師如来坐像及び日光・月光菩薩は、913年(延喜十三年)に造られたもので、平安時代初期を代表する彫刻として特に名高い。他にも多数の国宝や重要文化財が所蔵されている。

清瀧宮拝殿

上醍醐にある清瀧宮の拝殿。1434年(永享6年)に再建された寝殿造風の建築で国宝に指定されている。
清瀧宮は醍醐寺の鎮守社で、空海が勧請した真言密教を守護する女神清瀧権現を祀る。近くには寺名の由来となった醍醐水と呼ばれる霊水が湧き、今でも飲むことができる。

薬師堂

913年(延喜十三年)に醍醐天皇の御願堂として建てられ、その後劣化していたが、1121年(保安二年)に定海によって再建されたのが現存の建物。
正面五間、側面三間、入母屋造檜皮葺。内陣に使われている蟇股は現存する中で最古のものとも言われ、宇治上神神社本殿、平泉中尊寺金色堂のものと共に日本三蟇股に数えられる。
本尊の薬師三尊像(国宝)は保存のための霊宝館に移されており、現在は新しい薬師三尊像が安置されている。

如意輪堂

醍醐寺開山の聖宝が876年(貞観十八年)に上醍醐を開いたときに最初に建てた建物で、崖にせり出すように立つ。
現存の正面三間、側面五間、入母屋造檜皮葺の堂は1606年(慶長十一年)に豊臣秀頼の寄進で建てられたもので、内部には本尊の如意輪観音や毘沙門天像、吉祥天像を安置する。

開山堂

開山理源大師聖宝を祀るため、弟子の観賢によって911年(延喜十一年)に建てられた堂宇で御影堂ともいう。
現在の建物は如意輪堂と同じく豊臣秀頼の寄進で、1608年(慶長十三年)に再建されたもの。内部には開山の聖宝理源大師像、宗祖の弘法大師像、醍醐寺第一世座主の観賢僧正像が安置されている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「薬師如来」の御朱印、②「五大力尊」の御朱印、③「准胝観音」の御朱印、④「慈氏殿」の御朱印、⑤「神変」の御朱印など。
入手場所 金堂内の御朱印所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 桜と五重塔がデザインされた御朱印帳があります。
広告

醍醐寺の歴史

874年(貞観十六年)、真言宗の僧聖宝が笠取山(現上醍醐)にお堂を建て准胝観音と如意輪観音を安置したのが始まり。伝承では、聖宝は紫雲に導かれこの山へ至り、そこに現れた翁の姿をした神が湧き水を飲み、「醍醐味なるかな」といって姿を消したのが醍醐寺の寺名の由来とされる。
907年(延喜七年)、醍醐天皇の御願寺となり、薬師堂などが建てられ寺観を整え、951年(天暦五年)には今も残る五重塔が完成している。
摂関時代にはやや勢いが衰えたが、院政期になると、白川上皇の帰依を受け多数の堂宇を抱える大寺院となり、室町時代には足利将軍家の篤い帰依を受けて更なる発展を遂げたが、応仁の乱で多くの伽藍が焼失し寺領も失うなど衰退を余儀なくされた。
しばらくは荒廃した状態が続いたが、醍醐寺第80世座主に就いた義演の働きで、豊臣秀吉の支援を得ることに成功して復興が進んだ。1598年(慶長三年)に秀吉が醍醐寺で盛大な花見を開いたことはよく知られている。
古くから修験道との関係が深く、江戸時代には真言宗系の修験道の一派である当山派の本拠地となっていたが、1872年(明治五年)に修験道は禁止され、真言宗へ統合された。
1900年(明治三十三年)からは真言宗醍醐派として独立し、修験道の復興にも力を入れている。

 
[gad45]

広告