東本願寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(真宗大谷派)
アクセス 京都駅より徒歩7分。地下鉄五条駅より徒歩7分。市バス烏丸七条駅徒歩5分。駐車場なし。→詳細
概要 京都市下京区にある真宗大谷派の本山寺院で、正式には真宗本廟(かつては単に本願寺)と言うが西側にある本願寺との対比で「東本願寺」、「お東さん」などと一般に呼ばれる。
1602年(慶長七年)、教如上人が徳川家康から寺地を与えられ、本願寺(西本願寺)から分裂する形で創建された。
度々火災に会い、現在の御影堂、阿弥陀堂などは1895年(明治二十八年)に再建されたもの。
見どころ 御影堂門御影堂阿弥陀堂渉成園大谷祖廟
拝観時間 3月-10月→5時50分~17時30分、11月-2月→6時20分~16時30分
拝観料 境内自由。渉成園は大人500円以上の寄付が必要。
サイト http://www.higashihonganji.or.jp/
住所 京都市下京区烏丸通七条上る二丁目常葉町754

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東本願寺の見どころ

御影堂門

東本願寺の入り口に位置する、重層入母屋造本瓦葺、高さ27.5mの大門。
真宗本廟の額を掲げ、楼上内部には釈迦如来、阿難尊者、弥勒菩薩像を安置するが、現在は楼上にあがれない。天井には竹内栖鳳によって飛天舞楽図が描かれる計画があったが、実現しなかった。
1907年(明治四十年)に竣工、1911年(明治四十四年)に完成した。知恩院南禅寺の三門と共に京都三大門の一つに数えられることもある。

御影堂

境内中央に位置する正面76m、側面58m、高さ38mの巨大な建物。
1879年(明治十二年)に着工し、1895年(明治二十八年)に完成したもので、日本はもとより世界の木造建築の中でも最大級の大きさを誇る。
内部には親鸞上人木像を安置する他、工事に際して女性信者達から寄贈された毛綱が展示されている。これは木材などを運搬するために使われた綱で、髪の毛と麻を撚り合わせ編まれており、最も大きいもので長さ110m、太さ40cm、重さ約1tにも達したという。

阿弥陀堂

御影堂の南側に位置する間口52m、奥行き47m単層入母屋造本瓦葺の建物。
堂内正面には本尊の阿弥陀如来像を安置し、左右には七高僧・聖徳太子の絵像が掛けられている。
1880年(明治13年)に着工で、御影堂と同じく1895年(明治二十八年)に完成した。

渉成園

東本願寺の庭園だが境内とは繋がっておらず徒歩で3分をほど行ったところにある。
1641年(寛政十八年)に徳川家光から当地を寄進され、十三世宣如上人が石川丈山(1583-1672年)に作庭させ隠退所としたのが渉成園の始まり。枳殻の生垣を廻らせていたので枳殻邸とも呼ばれた。
1858年(安政五年)と1864年(元治元年)に火災にあい、当初の建物は全て焼失したが、池や石組みは創建時のままだという。
印月池を中心とした池泉回遊式庭園にはウメ、サクラ、フジ、カエデなど様々な植物が植えられており、四季折々の風景が楽しめる。
当地は平安時代に源融が奥州塩釜の風景を模して作った六条河原院の跡ともされる。
拝観時間は9~16時。施設維持のための協力寄付金500円を納めればガイドブックがもらえる。

大谷祖廟

東山区円山町にある浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の墓所。
東本願寺の飛び地境内という形になっているが距離はかなり離れている。開閉時間5時~17時。

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歴史

始まり

1263年(弘長二年)、90歳で亡くなった浄土真宗の宗祖親鸞は、初め京都東山大谷に葬られたが、1272年(文永九年)、吉水の北にあった親鸞の末娘覚信尼の住居へと移され、信徒達はそこ六角のお堂を建てた。これが本願寺の起源となる大谷廟堂で、覚信尼は敷地を教団に寄進して、自身は廟堂を管理する留守職に就任し、以後その職は覚信尼の子孫が世襲することとなる。
本願寺の寺名は三世覚如の頃から使い始めたとさ、教団の活動はしばらく不振だったが、八世に蓮如が就任すると果敢に活動し発展の基礎が作られた。

他宗派・世俗権力との対立

しかしやがて比叡山延暦寺と対立を深めるようになり、1465年(寛正六年)には大谷を襲撃され転出を余儀なくされた。
蓮如は越前の吉崎(現福井県あわら市)に移り北陸での布教に力を入れ勢力を回復した後、1480年(文明十二年)、京都の山科に本願寺を再建した。また1496年(明応五年)には大阪に石山本願寺を築き、1488年~1580年にかけて加賀国を一向一揆により実効支配するなどその勢力圏は格段に拡大した。
そのため他宗はや戦国大名との対立も激しくなり、1532年(天文元年)には日蓮宗徒他によって山科が焼き討ちに会い、石山本願寺に本拠地を移転した。
石山では寺内町を形成し強固な拠点を築くが全国統一を目指す織田信長と対立し、1570年(元亀元年)から10年間に及ぶ石山合戦が始まる。1580年(天正八年)に勅許により和睦が成立し、第十一世顕如は石山を退去することとなった。
その後、紀伊鷺森(現和歌山市)次に和泉貝塚に移転し、1585年(天正十三年)、豊臣秀吉から寺地を与えられ大阪天満に移り、更に1591年(天正十九年)、再び秀吉から京都堀川通六条に広大な土地を寄進されここ移った。これが現在地である。

東西分裂とその後

顕如の死後、長男の教如と三男の准如が跡目を争い、1593年(文禄二年)、秀吉の裁定の結果准如が第十二世に就任したが、1602年(慶長七年)、兄の教如が徳川家康から寺地を得て東本願寺を設立したため教団は分裂した。
東本願寺では翌1601年(慶長八年)、上野国厩橋(現群馬県前橋市)の妙安寺から親鸞聖人像を迎え、伽藍の建設を進めて寺観を整え、また1641年(寛永十八年)には徳川家光から広大な土地(現渉成園)をされ、寺内町を形成するなど発展を遂げた。
しかし、1788年(天明八年)から1864年(元治元年)までの間に4度火災にあい、特に64年の蛤御門の変の兵火では、御影堂と阿弥陀堂が全焼した。
明治になると廃仏毀釈の風潮の中で東本願寺も苦境に立たされるが、二十一世厳如は焼失した両堂の再建を決意し、欧州を視察して海外への布教を行うなど積極的な活動を展開した。
御影堂と阿弥陀堂は多数の信者の協力に支えられて、着工から16年後の1895年(明治二十八年)に完成している。

 
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