大阪城

大阪城城内マップ

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 史跡
アクセス 大阪市営地下鉄谷町四丁目駅から徒歩17分。大阪市営地下鉄・JR森ノ宮駅から徒歩16分。JR大阪城公園駅から徒歩20分。京阪天満橋駅から徒歩19分。駐車場あり。→詳細
概要 大阪市中央区大阪城にある城。
1583年(天正十一年)から1585年(天正十三年)にかけて豊臣秀吉が石山本願寺跡に築いたのが始まりで、大阪の陣で炎上し、徳川氏によって再建されが幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失して現在は1931年(昭和六年)に再建された天守閣が建つ。
天守閣内部は博物館になっており大阪城や豊臣秀吉にまつわる品々が展示されている。
大阪城公園を含む広大な敷地は「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されており、、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵などは重要文化財に指定されている。
見どころ 大手門・多聞櫓千貫櫓西の丸庭園乾櫓焔硝蔵一番櫓・六番櫓大阪城梅林桜門金蔵天守閣金明水青屋門豊国神社
拝観時間 9時~17時(入館は~16時30分)、桜のシーズン→9時~19時、ゴールデンウィーク→9時~18時。年末年始(12月28日~1月1日)休館。
拝観料 天守閣→600円、中学生以下無料(団体割引あり)。西の丸庭園→大人200円、中学生以下無料。
サイト http://www.osakacastle.net/
住所 大阪市中央区大阪城1-1

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大阪城の見どころ

大手門・多聞櫓

天守閣の西側に位置する高麗門形式の門と門を囲む石累の上に建つ櫓。
多聞櫓(たもんやぐら)は長屋状の櫓の事で戦国大名の松永久秀が多聞城に初めてこの形式の櫓を建てたことからそう呼ばれる。
1629年(寛永五年)に築かれたのがはじめだが、1738年(天明三年)に落雷で焼失し、現存する建物は1848年(嘉永元年)の再建。

千貫櫓

多聞櫓と繋がる西の丸庭園の西南隅にある櫓。
1620年(元和元年)に近江小室藩藩主で建築家・作庭家としても知られる小堀遠州によって築かれたもの。
千貫櫓の名は大阪城の前身である石山本願寺を織田信長が攻めた際に当地付近にあった櫓がなかなか落とせず、あの櫓を攻略した者には千貫の金を出すと約束したことに由来するという。

西の丸庭園

天守閣の西側にある広さ約6.5ヘクタールの庭園。
大阪城の倉庫が建ち並んでいた西の丸の跡地や城代の屋敷跡地を整備して1965年(昭和四十年)に開園。
桜の名所として知られ、シーズン中はライトアップされた夜桜も楽しめる。3月-10月→9時~17時、11月-2月→9時~16時30分。月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)休園。

乾櫓

西の丸庭の西北隅に位置するL字形二階建ての櫓。
千貫櫓と同じく1620年(元和元年)の徳川氏による再建時に建てられたもので城内最古の建造物。

焔硝蔵

西の丸庭園の北端に位置する建物で、元は焔硝(=火薬)を保管していた倉庫。
別の場所にあった土蔵の火薬庫が1660年(万治三年)に落雷を受けて大爆発を起こしたのを機に石造で建てられたのがこの焔硝蔵。

一番櫓・六番櫓

南側の外堀には1番~7番まで7棟の櫓が建っていたが1868年(明治元年)の戊辰戦争中に起きた火災や第二次大戦中の空襲で失われ、現在は1番と6番のみが残る。
共に1628年(寛永五年)頃の造営と考えられているが、六番櫓は空襲に加え1950年(昭和二十五年)のジェーン台風でも大ダメージを受け、かなりの部分が造り替えられている。

大阪城梅林

内濠の東側には約1.7ヘクタールの広さを持つ梅林があり、1200本を超える梅が植えられている。
1月から3月にかけて紅白の花を咲かせ、多くの花見客が訪れる。

桜門

本丸の入り口にあたる門。
豊臣時代には現在地よりも西側にあり、門前に桜並木があったことからこの名がついたという。
徳川時代に再建された門は戊辰戦争中に焼失し、現在は1887年(明治二十年)に陸軍が再建したもの。
門の周囲には、龍石、虎石、蛸石、振袖石と名付けられた巨石がある。

金蔵

本丸内にある東西3間、南北8間、寄棟造本瓦葺の蔵で、徳川時代の遺構。
その名の通り、西国の直轄地の年貢金や長崎貿易で得られた収益金などが上納されて納められていた所であり、非常に堅牢に造られている。

天守閣

大阪城天守閣天守閣(photo by chou_i_ci

大阪城の中心であり、大阪のシンボルともなっている建造物。
現存の建物は、1928年(昭和三年)に当時の大阪市長の關一にかけ声で再建が決まり、市民などから寄付を集めて1931年(昭和六年)に完成したもの。
大阪夏の陣屏風に描かれた豊臣時代の天守閣をもとに建てられているといい、8階建ての高さ54.8メートル、鉄筋コンクリート製でエレベーターも設置されている。
城内は歴史博物館になっており、2階はお城の情報コーナー、3・4階は豊臣秀吉とその時代、5階は大坂夏の陣図屏風の世界、7階は豊臣秀吉の生涯をテーマとして関連資料や文化財が展示されている。
また1階にはミュージアムショップと秀吉や大阪城に関する番組を上映するシアタールームがあり、最上階は展望台となっている。

金明水

天守閣の近くにある井戸のことで、豊臣秀吉が井戸水の毒を抜くために黄金を沈めたという伝説が伝えられる。
井戸屋形は1626年(寛永三年)に建てられものが焼けずに残っている。

青屋門

城の東北に位置する門。鬼門の方角にあたるため江戸時代にはほとんど開かれなかったという。
現存するのは1969年(昭和四十四年)の再建。

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歴史

石山本願寺時代

1496年(明応五年)、当地に山科本願寺の支坊として大阪御坊(石山御坊)が建てられ、1532年(天文元年)に山科本願寺が焼き討ちされるとここが浄土真宗の本山となり石山本願寺と名付けられた。
石山本願寺は寺内町を形成して一大勢力として発展し、石垣などを整えて石山城、大阪城と呼ばれるようになり、世俗的にも大きな力を持ったが畿内に進出してきた織田信長と対立を深め、1570年(元亀元年)から石山合戦と呼ばれる長期戦が始まった。
石山合戦は1580年(天正八年)に朝廷の和解案を受け入れる形で終結し、浄土真宗第十一世顕如は退去して当地は織田信長の手に渡った(この時顕如の子・教如によって石山本願寺は焼き払われた)。
信長は家臣の丹羽長秀に管理を任せ、大規模な城を建てることを計画したが1582年(天正十年)に本能寺で明智光秀に襲撃され死亡したため頓挫した。

豊臣時代

信長の死後、重臣達の間で遺産の配分が話し合われ、大阪城は一旦池田恒興の手に渡ったが、結局、柴田勝家らを破った豊臣秀吉に明け渡された。
秀吉はさっそく築城にとりかかり、1583年(天正十一年)から工事が始まり1585年(天正十三年)に本丸が完成し、1588年(天正十六年)には外堀と外郭も完成した。
さらに1594年(文禄三年)には周囲に惣構堀が掘られるなどの工事が続き、万全の防備が整えられた。
1598年(慶長三年)に秀吉が亡くなった後は関ケ原の合戦を経て子の豊臣秀頼の居城となったが、1615年(慶長二十年)大阪の夏の陣で徳川家康に攻められ城は廃墟となり豊臣家は滅亡した。

江戸時代

家康は摂津、河内、泉の秀吉領を幕府の直轄地とし、二代将軍徳川秀忠のもと1620年(元和六年)から築城工事が開始され、1626年(寛文三年)に天守閣が完成し、1629年(寛永六年)におおよその工事が終了した。
こうして新大阪城が完成し、幕府の西国支配の中心としての役割を担っていくようになったが、災害にも度々遭遇し、1660年(万治三年)には青屋門の焔硝蔵(火薬庫)が落雷により大爆発を起こし100名を越える死傷者をだし、天守閣は1665年(寛文五年)に落雷で焼失して以降再建されることはなかった。
1845年(弘化二年)から1858年(安政五年)にかけて大規模な修復工事が行われ往時に輝きを取り戻したが、1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いの混乱の中で本丸台所から出火してほとんどの建物を焼失した。

明治以降

江戸時代が終わりを告げると大阪城は新政府の手に渡り、陸軍の管理下に置かれることとなった。
こうして敷地内には陸軍関係の施設が置かれるようになったが、1928年(昭和三年)、当時の大阪市長關一が昭和天皇即位記念事業として大阪城公園の整備と天守閣の再建を計画し、市民からの寄付を集めて1931年(昭和六年)に現存する新天守閣が完成した。
しかし第二次大戦が始まると市民の立ち入りは禁止され、周辺に多数の軍需工場が建ち並んでいた大阪城は激しい空爆にさらされるようになった。
1945年(昭和二十年)に戦争が終結すると今度は占領軍に接収されたが、1948年(昭和二十三年)に返還され、大阪市の管理下で市民のための空間として整備されていくこととなった。

 
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