銀閣寺(慈照寺)

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(臨済宗相国寺派)
アクセス 市バス「銀閣寺道」下車、徒歩5分。近くに市営駐車場あり(8時~17時、普通車800円/日)。→詳細
概要 銀閣寺は京都市左京区銀閣寺にある臨済宗相国寺派の寺院で、正しくは慈照寺という(なお銀閣寺と呼ばれるのは金閣寺に対してであって、実際に銀箔が貼ってあるわけではない)。
室町幕府室町幕府八代将軍足利義政が将軍を辞した後の1482年(文明十四年)にこの地に山荘を造営したのが始まりで、義政の死後、夢窓疎石を勧請開山(師を開山として仰ぐもので一世住持は宝処周財)として寺院に改められた。
義政が金閣を模して造らせたという銀閣と東求堂は国宝、寺域全体は「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。門前には西田幾多郎が散歩したという「哲学の道」がある。
見どころ 銀閣東求堂庭園方丈書院銀閣寺垣
拝観時間 通常8時30分~17時。12月1日~3月14日は9時~16時30分
拝観料 大人・高校生500円、小中学生300円
サイト http://www.shokoku-ji.jp/
住所 京都市左京区銀閣寺町2

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銀閣寺の見どころ

銀閣

その名の通り銀閣寺の代名詞となっている建造物だが、正式には観音殿という。
足利義正の指揮で建築が開始され、1489年(長享三年)には上棟式が行われているが、正確にいつ完成したのかは不明。
銀閣と言われているが、これは鹿苑寺の金閣(舎利殿)に対してつけられた名前のようで、壁は漆塗りで銀箔は張られておらず、歴史的にも張られていた痕跡はなく、銀閣と呼ばれるとうになったのは江戸時代中期以降のことだといわれる。
正面4間、側面3間で2層からなる構造で、宝形造杮(こけら)葺屋根の頂上には金銅製の鳳凰が置かれている(この鳳凰は当初からあったものではなく18世紀後半頃までは代わりに宝珠が置かれていたという)。
一層目は心空殿と名付けられており、腰高障子や杉戸を使った住宅風の造りで、奥の間には千体地蔵像が祀られている。潮音覚と名付けられた二層目は、桟唐戸を使い、漆塗りの板壁に花頭窓で、正方形の平面を持つ禅宗様仏殿風に造られており、観音菩薩坐像を安置する。
鹿苑寺の金閣(舎利殿)や西芳寺の瑠璃殿(舎利殿)の形式を踏襲し、金閣が焼失した今となっては唯一現存する室町期の楼閣庭園建築となっている。
また金閣が室町時代初期の北山文化の代表的建築物とされるのに対し、銀閣は室町時代後期の東山文化の代表的建築物とされる。なお、内部は拝観できない。面前には錦鏡池や銀沙灘が広がる。

東求堂

1486年(文明十八年)に足利義政によって東山殿の持仏堂として造られたもので、銀閣と共に室町時代から残る建造物。
各面約7mの一層から成り屋根は入母造、杮(こけら)葺、内部は4室に分かれている。南側には仏間があり、中央の須弥壇には本尊の阿弥陀如来立像が、脇仏壇には足利義政像が安置されている。
東北には義政の書斎である4畳半の「同仁斎」と名付けられた部屋があり、北側に一間の付書院と半間の違棚を設けた書院造の初期の形態だといい、4畳半茶室の原型となったとも言われている。

庭園

約20000㎡の広さを持つ広大な庭園で、夢窓疎石の作った西芳寺の庭園を模して足利義政が善阿弥に造園させたものだといわれている(ただ、江戸時代に行われた改造によって原型は失われている)。
庭園は西芳寺と同じく上下二段に別れ、上段は廃れていたが1931年(昭和六年)に発掘され、「お茶の井」と呼ばれる義政が茶を沸かすのに使ったという湧き水がある。
下段は錦鏡池を中心とした池泉式の庭園で、銀閣から東求堂まで広がり、錦鏡池には白鶴島、仙人洲が浮かび、そこへ迎仙橋、仙袖橋などの自然石で作られた橋が架かる。
方丈(本堂)の前には白砂を66cmの段形に盛り上げた銀沙灘と円錐台形をした高さ180cmの向月台がある。銀沙灘は月の光を反射させるため、向月台はそこへ登り、月待山から上る月を観賞するために造られたともいわれるが詳細は不明。いずれも初期からあったものではなく江戸時代に加えられたものだという。
一帯には松や楓などが植えられており、紅葉も美しく、1952年(昭和二十七年)には国の特別史跡・特別名勝に指定されている。

方丈(本堂)

寛永年間(1624年~1644年)に建てられて入母屋造りの建物で、本堂も兼ね釈迦牟尼仏を安置する。
内部には与謝蕪村(1716年~1784年)の「山水人物図」、「飲中八仙図」、「棕櫚に叭叭鳥図」や池大雅(1723年~1776年)の「琴棋書画図」といった襖絵があるが、これは精巧にコピーされたもので本物は相国寺承天閣美術館で保存されている。

書院

1998年(平成五年)に完成した新しい建物。
旧庫裏から移した茶室集芳軒があり、富岡鉄斎(1837年~1924年)による襖絵が所蔵されている。

銀閣寺垣

総門から中門にかけての長さ約50mの参道の両側には、銀閣寺垣と呼ばれる独特な竹垣がある。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「観音殿」の御朱印、②「北山殿」の御朱印
入手場所 出入口近くの御朱印所(拝観前に預ける)。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 銀閣が描かれた御朱印帳があります。
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銀閣寺の歴史

東山殿時代

応仁の乱が終結した後、将軍職を子の義尚に譲った室町幕府八代将軍足利義政が、祖父義満の建てた北山殿(後の金閣寺)にならって、1482年(文明十四年)、この地に東山山荘(東山殿)の造営を開始したのが銀閣寺の始まり。
元々ここは応仁の乱で焼けた天台宗の浄土寺があった場所で、月待山を背景とした景観を義政がとても気に入っていたという。翌83年(文明十五年)、住居となる常御所ができると義政は全体の完成を待たずに移住し、85年(文明十七年)に禅室西指庵が、86年(文明十八年)に持仏堂として東求堂が、87年(長享元年)には東山殿会所、泉殿が完成する。また、西芳寺の庭園に習って造られた上下二段構造の庭園もこの頃に完成している。
更に銀閣(観音堂)の建設に着手し、89年(長享三年)に棟上式が行われるが、義政は完成をみることなく90年(永徳二年)に死去した。
義政が東山殿で暮らした時間は僅かだったが、名画や名器、墨蹟を蒐集し茶の湯に親しむ風流など生活を送り、東山文化と呼ばれる室町時代後期の文化の中心となった。

慈照寺とその後

義政の死後、東山殿は遺言によって禅寺とすることが決められており、山号を東山、寺名を慈照院として夢窓疎石を勧請開山(高位の僧に開山を頼むもので疎石はこの時すでに亡くなっている)に招き寺院に改められ、翌91年(永徳三年)には慈照寺に改名(寺名は義政の法号慈照院喜山道慶に基づく)。
足利将軍家が衰えるとともに衰微し、1550年(天文十九年)には第十三代将軍足利義輝の軍と三好長慶の軍の争いに巻き込まれ、銀閣と東求堂を除いたほとんどの建物が焼失した。
江戸時代になった1614年(慶長十九年)、徳川家康から三十五石の寺領を与えられ、翌年には宮城豊盛の援助で方丈が建設され、銀閣や東求堂の修理、庭園の改築が行われるなど復興が進んだ。
明治の初めの廃仏毀釈の影響で一時苦境に陥るが、16世祥洲元禎の努力で切り抜け、現在では京都有数の観光スポットとなっている。
1994年(平成六年)には古都京都の文化財の構成要素としてユネスコの世界文化遺産に登録されており、銀閣(観音堂)と東求堂は国宝、庭園は特別史跡・特別名勝に指定されている。

 
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