京都御所

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


0

種類 御所
アクセス 地下鉄今出川駅から徒歩5分。市バス烏丸今出川から徒歩5分。駐車場あり(普通車500円/3時間)。→詳細
概要 京都御苑内にある塀で囲まれた一角の区域で、南北朝時代から明治初めに天皇が東京に移るまでの間、内裏(天皇の居住する宮殿)として使われていた場所。
敷地は南北約450m、東西約250mの長方形で、東に建春門、西に宣秋門・清所門・皇后門、南に建礼門、北に朔平門を配置し、紫宸殿、清涼殿、小御所、御常御殿、御涼所などの建物が立ち並ぶ。現在は宮内庁によって管理されている。
見どころ 御車寄諸大夫の間建礼門紫宸殿清涼殿小御所御学問所御常御殿御三間興春殿
拝観時間 9月・3月→9時~16時30分、10月-2月→9時~16時、4月-8月→9時~17時
拝観料 無料
サイト http://sankan.kunaicho.go.jp/
住所 京都市上京区京都御苑3

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京都御所の見どころ

御車寄

昇殿を許されたものが使用する玄関で、小御所や清涼殿と廊下で繋がっている。
この奥には1915年(大正四年)の大正天皇の即位礼の際に建てられた新車寄があり、天皇陛下が訪れる際にはここを使用するという。

諸大夫の間

参内したものが控室として使用していた建物。
内部には「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」があり、身分の高さに応じて使用できる部屋が決まっていたという。

建礼門

御所の南側に位置する、切妻造桧皮葺の四脚門。
一般の参拝者は宜秋門あるいは清所門から出入りするので普段使われることは無いが、天皇陛下や外国の要人が訪れた際や皇室関連の重要な儀式の時は開かれる。

紫宸殿

内裏の正殿にあたり、天皇の即位や立太子などの重要な儀式が行われていた場所。
何度も焼失を繰り返し、現存の建物は江戸時代末期の再建で、東西九間、南北四間の入母屋造桧皮葺。
建物の中心部分の内部には天皇の御座所である高御座と皇后の御座所である御帳台が置かれている。
昭和天皇までは京都で即位が行われていたが今上天皇の即位は東京で行われ、その際、高御座と御帳台を皇居まで運び儀式が執り行われた。

清涼殿

元々は天皇の住居だったが、その後日常の執務や儀式が行われる場所となった。
正面九間側面五間、屋根は入母屋造桧皮葺の寝殿造建築で、内部は多くの部屋に分かれる。
正面には東庭と呼ばれる、白砂を撒き漢竹を植えたシンプルな庭園がある。

小御所

会議や来客との対面に使われていた建物で、1868年(慶応三年)には徳川慶喜の処分などをめぐって開催された「小御所会議」の舞台となっている。
1954年(昭和二十九年)、近隣で打ち上げられた花火が原因で焼失し、現存する建物は1958年(昭和三十三年)に再建されたもの。

御学問所

和歌の会、御読書始めの義など学問関係の行事に使用されていた建物。御学問所と御常御殿の間にはしばしば蹴鞠が行われた「蹴鞠の庭」がある。

御常御殿

天皇の日常生活の場として使われていた所で、御所内で最大の建物。
内部には狩野永岳、土佐光清、鶴沢探真、座田重就などによって描かれた襖絵が飾られている。

御三間

1709年(宝永六年)に御常御殿の一部が独立してできたもので、七夕などの内向きの行事にしようされたほか、1860年(万延元年)には祐宮(後の明治天皇)の成長を願う「深曽木」の儀式がここで行われた。

興春殿

1915年(大正四年)に行われた大正天皇の即位礼のために建てられたもので、皇居から運び込んだ神鏡を一時的に保管しておくための施設。昭和天皇の即位の際にも使用された。

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京都御所の歴史

現在の京都御所は平安時代に内裏があった場所とは異なり、元は里内裏(内裏外の天皇の住居)の一つである土御門東洞院殿が建てられたいたところだった。
しかし南北朝時代の光厳上皇の頃から内裏としての機能を持ち始め、やがて正式な皇居として使われるようになった。
1401年(応永八年)、土御門東洞院殿が焼失したのをきっかけで、足利義満の指導により敷地を拡大して再建され、その後も織田信長や豊臣秀吉によって整備され現在の原型が形作られた。
江戸時代になってからも度々焼失し、1790年(寛政二年)には老中松平定信の指導で「大内裏図考證」(裏松光世による内裏の研究書)を参考にした再建がなされた。
これも1854年(安政元年)に焼失し、翌年、寛政の再建の様式を引き継いで再建された。現存する建物の多くはこの時に建てられたものである。
1869年(明治二年)、天皇は東京へ移り、御所は宮内省の管理するところとなった。

 
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