建仁寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(臨済宗建仁寺派)
アクセス 京阪電車祇園四条駅から徒歩7分。阪急電車河原町駅から徒歩10分、市バス東山安井から徒歩5分。
駐車場あり(200円/30分)、拝観者は1時間無料。
概要 建仁寺は京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の本山寺院。
明庵栄西を開山、鎌倉幕府二代将軍源頼家を開基として、1202年(建仁二年)に創建され、室町時代には京都五山第三位として栄え、その後戦乱に巻き込まれ荒廃したこともあったが復興され現在へいたる。
当寺に伝わる俵屋宗達の「風神雷神図」は非常に有名。地元ではけんねんさんの愛称でも親しまれる。
見どころ 勅使門三門法堂方丈風神雷神図東陽坊茶席両足院禅居院
拝観時間 3月1日~10月31日→10時~17時。11月1日~2月28日→10時~16時30分
拝観料 一般500円、中高生生300円
サイト http://www.kenninji.jp/index.html
住所 京都市東山区大和大路四条下ル小松町584

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建仁寺の見どころ

勅使門

八坂通に面して建つ切妻造銅板葺の四脚門。
平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものともいわれ、扉や柱に矢の刺さったあとがあることから「矢の根門」とも呼ばれる。通ることはできない。

三門

1923年(大正十二年)に静岡県浜名郡(現浜松市)の安寧寺から移設したもので、江戸時代末期の建築。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者、十六羅漢を安置する。

法堂

1765年(明和二年)の建立で、五間四間一重裳階付の禅宗様仏殿建築。
内部には本尊の釈迦如来座像や脇侍迦葉尊者・阿難尊者を安置する。また、天井には2002年(平成十四年)の建仁寺創建800年を記念して描かれた、小泉淳作(1924-2012)による「双龍図」がある。

方丈

1599年(慶長四年)に安国寺恵瓊が安芸(広島)の安国寺から移設したもので、室町時代の建築。
正面十一間側面八間銅板葺の禅宗方丈建築。内部には十一面観音菩薩像を安置する。
海北友松(1533-1615)による「山水図」「竹林七賢図」など襖絵があったが、1934年(昭和九年)の室戸台風で建物に被害が出たのを機に襖から掛軸に改装され、現在は京都国立博物館に寄託さており、代わりに日本画家橋本関雪(1883-1945年)による障壁が「生生流転」「深秋」などが設置されている。
方丈前には大雄苑と呼ばれる枯山水庭園があり、隅には織田長益(有楽斎)が兄信長の供養のために立てた石塔が残されている。また、方丈裏には関ヶ原の合戦で敗れ、斬首された恵瓊の首塚がある。

風神雷神図

俵屋宗達(生没不明、江戸時代初期の人)の代表作として知られる屏風絵。
京都の豪商・打它公軌が建仁寺派の寺院妙光寺再興のために俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。
現在も建仁寺の所蔵だが、保存のために京都国立博物館に寄託されており、方丈には代わりの複製が置かれている。

東陽坊茶席

方丈裏にあり、1587年(天正十五年)に豊臣秀吉が催した北野大茶会の時、千利休の弟子真如堂東陽坊長盛が作った茶席を移設したもの。茶室の西側には建仁寺垣と呼ばれる竹垣が設けられている。

両足院

建仁寺の塔頭の一つで、龍山徳見(1284−1358年)を開山として南北時代に創建された。
方丈前には枯山水庭園が、書院前には池泉回遊式庭園があり、京都府の名勝に指定されている。
毘沙門天堂に鞍馬寺の本尊での胎内仏であったという毘沙門天を、本堂に阿弥陀如来立像を安置する。また、長谷川等伯(1539-1610年)筆とされる襖絵を所蔵する。
墓地には龍山が中国から連れて帰った人で、日本の饅頭屋の祖とされる林浄因の墓がある。普段は非公開だが年に数回特別公開される。

禅居院

建仁寺の塔頭の一つで、勅使門の西側にある。
建仁寺第23世清拙正澄が開いた塔頭で、正澄が来日した際に一緒に中国から請来したという摩利支天像を安置する。
摩利支天像は足元に7頭のイノシシを従えていることから、境内にはイノシシの石像が多数設置されている。
海北友松の代表作に一つ松竹梅図を所蔵するが、現在は京都国立博物館に寄託されている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「拈華堂」の御朱印、②「摩利支尊」の御朱印、③「両足」の御朱印、④「毘沙門天」の御朱印。
入手場所 ①は本坊入り口朱印所、②は禅居庵、③は両足院、④は霊源院。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 風神雷神図や龍雲図がプリントされた御朱印帳があります。
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歴史

建仁寺の開山となる明菴栄西は1168年(仁安二年)と1187年(文治三年)の二度宋に渡って虚庵懐敞から禅宗を学び、帰国すると布教を開始して1195年(建久六年)博多に禅宗寺院聖福寺を建立するが、旧仏教勢力からの反発を受けうまくいかず、庇護者もとめ鎌倉へ下り鎌倉幕府第2代将軍源頼家の知己を得る。
その頼家を開基として、1202年(建仁二年)に創建されたのが建仁寺であり、他宗派への配慮もあり当初は天台・真言・禅宗の兼学として出発したが、第11世に蘭渓道隆がついた1259年(正元元年)以降、純粋な禅宗寺院となった。
室町時代になり五山の制が定められると京都五山の第三位に列せられ、また五山文学に活躍した優れた学僧を多数輩出し、「学問づら」とも呼ばれた。
その後、応仁・文明の乱など戦乱に巻きこまれほとんどの建物は焼失し、一時衰退を余儀なくされたが、安国寺恵瓊が住持となると天正年間(1573-92年)には復旧が進み江戸時代には勢力を回復した。
明治維新の影響で塔頭や寺領は減少したが、現在でも二万坪以上の敷地を有する大寺院である。

 
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