石上神宮

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 神社
アクセス 天理駅から徒歩30分、または奈良交通バス苣原行きで石上神宮前下車5分。駐車場あり。→詳細
概要 石上神宮は奈良県天理市布留町にある神社で、布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神などを祀る。
主祭神はそれぞれ剣に宿る魂で、社伝などによれば最初宮中で祀られていたが、古代の豪族物部氏の氏神として前91年(崇神天皇七年)に現在地に遷された。
境内には拝殿、本殿、神庫、楼門や摂社の出雲建雄神社、天神社、猿田彦神社などが建ち並ぶ。
主な行事には、元始祭(1月1日)、出雲建雄神社例祭(1月15日)、玉の緒祭(節分前夜)、節分祭、春季大祭(4月15日)、神剣渡御祭(6月30日)、崇敬会大祭(9月1日)、例祭(10月15日)がある。
当宮に伝わる七支刀は歴史の教科書にも掲載されており、非常に有名。
見どころ 楼門拝殿本殿出雲建雄神社七支刀
拝観時間 境内自由。拝殿は5時30分から17時30分(季節により多少変動)
拝観料 境内自由
サイト http://www.isonokami.jp/
住所 奈良県天理市布留町384

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石上神宮の見どころ

楼門

拝殿、本殿のある区画の入り口に位置する門で、1318年(文保二年)の建立。左右に朱塗りの回廊が接続する。
掲げられている「萬古猶新」の扁額は元老として知られた山縣有朋(1838-1922年)の筆によるもの。

拝殿

楼門の奥に建つ正面5間側面2間入母屋造檜皮葺の建物。
白河天皇(1053-1129年)が皇居の神嘉殿を移したとの伝承があるが、実際は鎌倉時代初期の建立と考えられている。現存する拝殿としては最古の部類で国宝に指定されている。

本殿

元は石上神宮に本殿は無く、背後の布留山を御神体として、拝殿の背後は禁制地となっていた。
ここには祭神の正体である神剣が埋められているとの伝承があり、1874年(明治七年)に大宮司の菅政友が発掘調査を行ったところ勾玉などと共に大刀が出土した。
この大刀こそ韴霊(布都御魂)であるとして、お祀りするために1913年(大正二年)に本殿が建てられた。

出雲建雄神社

石上神宮の摂社のひとつで、天叢雲剣(草薙剣)の荒魂である出雲建雄神を祀る。
創建年代は不明だが、江戸時代に成立した社伝によれば天武天皇の代(在位673年~686年)に創建されたという。
拝殿は内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺で明治初めに廃寺)の鎮守社の拝殿を1914年(大正三年)にいちくしたもの。鎌倉時代の建築で、国宝に指定されている。

石上神宮では鶏が神の使いとされ、鏡池畔の休憩所周辺などを自由に歩き回っており触れ合うことができる。
40年ほど前に奉納されたのが始まりだといい、東天紅、烏骨鶏、レグホンなどが約30羽生息している。

七支刀

当宮の神庫に古来より伝わって来たのが銘文で有名な七支刀で、社伝では「六叉鉾」と呼ばれている。
その枝分かれした独特の形は呪術的な意味を持つとされ、祭具として用いていたという。
銘文には読めない部分もありさまざまな解釈がなされているが、「泰□四年」を「泰和四年」=369年とする説が有力で、百済で造られ百済の王から倭の王に贈られたといった趣旨のことが書かれている。
現在は宝物収蔵庫に納められているが、普段は非公開となっている(最近では2010年に公開された。また、博物館などの企画展に貸し出されて公開されることもある)。

御朱印・御朱印帳

種類 「石上神宮」の1種類。
入手場所 拝殿近くの授与所。
値段(初穂料) 1件300円
オリジナル御朱印帳 シンプルなデザインの御朱印帳があります。サイズは18cm×11cm、値段は1500円。
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歴史

布都御魂大神(韴霊・甕布都神・佐士布都)は武甕雷神が持っていた剣に宿る御霊で、神武東征の際に熊野で困難に陥った神武天皇のもとに下って助けたので、橿原宮を造営した際に物部氏の祖・宇摩志麻治命に祀らせた。さらに前91年(崇神天皇七年)には物部氏の 伊香色雄命が現在地に遷して石上大神として祀ったのが当宮の始まりとされる。
また、布留御魂大神は饒速日命が天下りの際に天神御祖から授けられた天璽十種瑞宝、布都斯魂大神はスサノオがヤマタノオロチを退治した天十握剣に宿る神霊とされる。
物部氏は軍事的性格の強い豪族で、当宮には各地方から集められた神宝(主に武具)が納められるなど大和政権の武器庫としての役割を果たしていたといわれる。
平安時代になってからも朝廷からの崇敬は続き、850年(嘉祥三年)に正三位、868年(貞観九年)に正一位を贈られ、二十二社の制では中七社のひとつに列せられている。
中世になると興福寺の勢力に圧迫され、1568年(永禄十一年)には織田信長の軍に攻められて社殿は破壊され、寺宝が盗まれた。以後衰微するが氏子達の努力で細々と存続し、1871年(明治四年)に政府の援助で官幣大社として復興された。

 
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