室生寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(真言宗室生寺派)
アクセス 近鉄大阪線室生口大野駅から奈良交通バスで室生寺前下車すぐ。有料駐車場あり。→詳細
概要 室生寺は奈良県宇陀市室生にある真言宗室生寺派の大本山寺院
古くから龍神の住まう霊地として信仰されてきた当地で興福寺の僧・賢憬が山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒を祈ったところ効果があったため、即位した桓武天皇によって建てられたのが室生寺の始まりとされる。
江戸時代には、五代将軍徳川家綱の母・桂昌院の支援を受けて興福寺の影響下から脱し、女性の参詣も許されたので女性禁制の高野山に対して女人高野とも呼ばれた。
大きな災害に遭わなかったため境内には古い建造物が残されており、金堂、本堂、五重塔は国宝に指定されている。また境内は自然豊かで、桜・シャクナゲ・紅葉などの植物も楽しめる。
見どころ 金堂弥勒堂本堂五重塔奥の院シャクナゲ・紅葉
拝観時間 4月1日-11月30日→8時30分~17時、12月1日-3月31日→9時~16時
拝観料 大人600円、子供400円
サイト http://www.murouji.or.jp/
住所 奈良県宇陀市室生78

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室生寺の見どころ

金堂

正面5間、側面5間、寄棟造杮葺の建物で、正面の1間は礼堂になっている。
正確な建立年代は不明だが9世紀頃の建築とされ、礼堂の部分は1627年(寛文十二年)に増築されたもの。
内部には木像釈迦如来立像(国宝)・十一面観音立像(国宝)・薬師如来立像・地蔵菩薩立像・文殊菩薩立像や十二神将像を安置し、本尊の釈迦如来像の背後には帝釈天曼荼羅(国宝)が描かれている。

木造釈迦如来立像

金堂五仏の中央に安置される高さ238cm、カヤ材一木造の立像で、9世紀後半~10世紀頃の作。
十二神将を眷属として従えていることなどから元は釈迦如来ではなく薬師如来像だったと考えられている。

帝釈天曼荼羅

金堂本尊背後の板壁に描かれた彩色画。
中尊は右手に金剛杵のひとつ独鈷杵を持つことから帝釈天と考えられるが、同系統の図はなく主題は不明。平安時代初期の作とされる。

弥勒堂

金堂の左側に位置する3間四方入母屋造杮葺の建物。鎌倉時代の建立で江戸時代に改築されている。
内部には8世紀末頃~9世紀初め頃の作とされる釈迦如来坐像(国宝)や本尊の弥勒菩薩立像(重文)を安置する。

本堂(灌頂堂)

金堂左手の石段を上がったところにある5間四方、入母屋造檜皮葺の建物で、灌頂という密教の儀式を行うことから灌頂堂とも呼ばれる。1308年(延慶元年)の建立で国宝に指定。
内部は内陣・外陣に分かれ、内陣中央の厨子には日本三大如意輪観音のひとつに数えられている如意輪観音座像(重文)を安置し、左右の板壁には金剛界・胎蔵界曼荼羅が描かれている。

五重塔

本堂横の石段を上がったところにある小塔。
奈良時代末期から平安時代初期の建立と考えられ、屋外ある塔としては法隆寺の塔に次いで二番目に古く、高さは16.1メートルで、屋外に立つ五重塔としては日本で最も小さい。
通常の塔では相輪(塔のてっぺんに立つ棒)の上部に水煙という飾りがつけられているが、この塔は水煙の代わりに最上部に八角形の天蓋をもつ宝瓶と呼ばれる飾りを乗せているのが特徴。
1998年(平成十年)、台風の大風で折れた杉の木が直撃して屋根や軒が剥がれかけるなど大きく損壊したが、幸い根幹部にダメージはなく2000年(平成十二年)までに修復されている。

奥の院

五重塔脇の石段をさらに上がっていくと奥の院と呼ばれる区域にたどりつく。
板葺き二段屋根宝形造りの御影堂(大師堂)は鎌倉時代後期の建築で、内部には空海42歳の像を祀る。

シャクナゲ・紅葉

室生寺周辺は自然豊かで新緑や紅葉が美しいが、境内のあちこちに植えられたシャクナゲが特に有名。4月中旬から初夏にかけてがシーズンで、この時期は毎年多くの人で賑わう。
また、奥の院に至る参道付近に生えているシダは室生山暖地性シダ群落として天然記念物に指定されている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「悉地院」、②「十一面観音」、③役行者霊蹟札所「神変大菩薩」、④「如意宝珠」、⑤大和地蔵十福霊場「如意地蔵尊」、⑥仏塔古寺霊場第十八番「五秘密菩薩」、⑦西国四十九薬師霊場第八番「薬師如来」。
貰える場所 仁王門近くの授与所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 五重塔が描かれた御朱印帳があります。サイズは16×11cm、値段1200円。
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歴史

役小角(役行者)が創建して空海が中興したとする説や近くの室生竜穴神社の神宮寺として建てられたとする説もあるが、一番有力な説によれば、宝亀年間(770年-781年)に興福寺の僧・賢憬(賢璟)が龍神の住まうというこの地で山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒を祈ったところ効果があったため、781年(天応元年)の即位後に天皇によって寺院創建の勅命が出されたのが始まりとされる。
造営は主に賢憬の弟子の修円によって進められ、818年(弘仁八年)には嵯峨天皇の命で雨乞いの修法が行われている。
興福寺の僧が創建に関わっていることから興福寺の影響下にあったが、一方真言密教も盛んで、金堂安置の薬師如来像を釈迦如来像としたのは両者の勢力争いによるものと考えられている。
江戸時代には 五代将軍徳川綱吉の母桂昌院の支援で興福寺から独立して新義真言宗豊山派の寺院となり、女性の入山を許したため女人高野とも呼ばれた。1964年(昭和三十九年)には豊山派からも独立して真言宗室生寺派を形成。

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