大徳寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(臨済宗大徳寺派)
アクセス 市バス「大徳寺前」下車すぐ。駐車場あり(40台、500円/2時間)。京都市営地下北大路駅徒歩15分。
概要 大徳寺は京都市北区柴野大徳寺町にある臨済宗の寺院で、正式には龍寶山大徳禅寺という。
開山の宗峰妙超(大燈国師)が播磨国守護赤松則村の支援を受けて1315年(正和四年)~1319年(元応元年)頃に小院を建てた事に始まる。
現在では広大な敷地に多数の堂宇や塔頭を抱えるが、非公開となっている場所も多い。
国宝に唐門、方丈及び玄関、絹本墨画淡彩観音図、絹本著色大燈国師像、後醍醐天皇宸翰御置文、虚堂智愚墨蹟がある。
見どころ 三門仏殿法堂方丈唐門龍源院瑞峯院大仙院高桐院真珠庵
拝観時間 9時~16時30分
拝観料 境内無料。伽藍内部は通常非公開(京阪バスツアーで行くと拝観できる)。
サイト なし
住所 京都市北区柴野大徳寺町53

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大徳寺の見どころ

三門(金毛閣)

1529年(享録二年)、一時大徳寺真珠庵に住んだ連歌師の宗長らによって建立され、1589年(天正十七)に千利休が上層をつけ加えたとされる五間三戸、入母屋造、朱塗りの重層門。
上層内部には釈迦三尊、十六羅漢、千利休像が安置され、天井には長谷川等伯(1539-1610年)による龍雲図が描かれている。
この利休像がいわくつきで、利休が三門を増築した際に雪駄を履いた自身の像を創らせて楼上に安置し、豊臣秀吉にその下を通らせたことが、利休が切腹を命じられる原因となったという説がある。
三門の手前には1640年(寛永十七年)に京都御所の陽明門を後水尾天皇から下賜されたものである勅使門がある。

仏殿

創建当初の建物は応仁の乱で焼失し、その後一休和尚によって立て直されたがそれも朽ちて、現存の建物は1665年(寛文五年)に京の豪商那波常有の寄進で再建されたもの。
内部には本尊の釈迦如来像や祖師像を安置し、天井には狩野元信によって天人散華図が、背後の障壁には海北友松によって龍雲図が描かれている。

法堂

法堂は応仁の乱で焼失したの後ながらく再建されなかったが、1636年(寛永十三年)小田原城主稲葉丹後守正勝・正則父子によって現存の建物が寄進された。天井には狩野探幽によって龍雲図が描かれている。

方丈

現存の建物は京都の豪商後藤益勝の寄進で再建されたもので、正面十六間、側面九間の大建築。
内部には開山の大燈国師(宗峰妙超)の遺骨と木像大燈国師坐像を安置する雲門庵や花園法皇の御髪塔などがあり、狩野探幽によって襖絵が描かれえいる。
方丈庭園は1636年(寛永十三年)に造られた枯山水式の庭園で、国の特別名勝、史跡に指定されている。南庭は天祐紹杲、東庭は小堀遠州の作庭と伝えられる。

唐門

方丈前にある切妻造檜皮葺の四脚門で、豊臣秀吉の営んだ聚楽第の遺構とされる。元は勅使門の西側にあったが、1886年(明治十九年)に現在地へ移された。
西本願寺唐門と豊国神社唐門と共に桃山の三唐門の一つとされ、随所に豪華絢爛な彫刻が施されている。

龍源院

大徳寺の塔頭の一つで、畠山義元、大友義親、大内義興を開基、東渓宗牧を開山として、永正年間(1504年~1521年)に創建された。
方丈北側には龍吟邸庭と呼ばれる苔で覆われた枯山水庭園あり、南側には一枝坦と呼ばれる庭園がある。
方丈や表門、本尊の木像釈迦如来坐像は重要文化財にしていされている。他にも狩野探幽の襖絵や日本最古とされる天正11年(1583年)の銘を持つ種子島銃を所蔵する。拝観料300円、9時~16時30分。

瑞峯院

大徳寺の塔頭の一つで、キリシタン大名として知られる大友宗麟(義鎮)が、徹岫宗九を開山として、1535年(天文四年)に創建した。
方丈北側にある閑眠庭と呼ばれる枯山水庭園は作庭家重森三玲(1896-1975年)の作で、宗麟にちなんで七個の石が十字架型に配置されている。拝観料400円、9時~17時。

大仙院

大徳寺の塔頭のひとつで1509年(永正六年)、大徳寺76世住職古岳宗亘によって創建。
本堂は1513年(永正十年)に建てられた入母屋造銅板葺の禅宗建築で、国宝に指定されている。また本堂の東に位置する枯山水庭園も有名で、国の特別名勝、史跡に指定されている。400円、9時~17時。

高桐院

大徳寺の塔頭のひとつで1601年(慶長六年)、肥後細川家当主細川忠興(三斎)が父の菩提を弔うために創建。
忠興は茶人としても知られ、利休七哲の一人に数えられる人物で、書院は千利休の邸宅を移したものだと伝えられる。
境内には細川忠興や妻の細川ガラシャの墓もある。拝観料400円、9時~16時30分。

真珠庵

一休宗純によって永享年間(1429~1441年)に建てた草庵が始まりで、応仁の乱で焼失した後、1491年(延徳三年)に堺の豪商尾和宗臨の寄進で再興され真珠庵となった。
1638年(寛永十五年)に建てられた方方丈には一休坐像を安置し、長谷川等伯、曽我蛇足による襖絵がある。
方丈前の枯山水庭園は村田珠光あるいは宗長の作とされ、境内には珠光の墓もある。所蔵の大燈国師墨跡は国宝に指定。基本的に非公開。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「本朝無双禅苑」、②「拈華殿」、③「真珠菴」、④「釈迦如来」、⑤「大園殿」、⑥「高桐院」、⑦「施無畏」、⑧「真珠庵」、⑨「釈迦牟尼仏」、⑩黄梅院御詠歌の御朱印、⑪「独坐大雄峰」、⑫「楼閣山水」、⑬「釈迦如来」、⑭「玉林院」
入手場所 ①は宗務本庁、②は大仙院、③は真珠菴、④は聚光院、⑤は龍源院、⑥は高桐院、⑦は総見院 ⑧は真珠庵、⑨は興臨院、⑩は黄梅院、⑪は瑞峯院、⑫は芳春院、⑬は聚光院、⑭は玉林院。
値段 1件300円(黄梅院の御詠歌は1000円)
オリジナル御朱印帳 本体にはないようですが、塔頭の大仙院に「喝」と書かれたオリジナル御朱印があります。
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大徳寺の歴史

臨済宗の僧である宗峰妙超(大燈国師)が播磨国守護赤松則村の支援で1315年~1319年頃この地に小院を建てたのが大徳寺の始まりで、花園上皇、後醍醐天皇の帰依を受けると五山の上位とされ大寺院に発展した。
しかし、足利尊氏が権力を握ると状況は一転し、1386年(至徳三年)には十刹の九位に格下げされている。この状況を脱するため1431年(永享三年)には官刹を辞退し再建を図ったが、応仁の乱で多くの堂宇が焼失して頓挫した。
1474年(文明六年)に一休宗純が47世住持に就くと、堺の豪商尾和宗臨の支援を取り付け復興が進み、その後、堺の商人や一休に師事した村田珠光や千利休などの茶人、小早川隆景、石田三成などの戦国武将の寄進を受けて多くの塔頭が創建されるようになり、1582年(天正十年)には豊臣秀吉によって織田信長の葬儀が大徳寺で行われた。
江戸時代になると幕府による朝廷や寺院に対する統制が進み、1627年(寛永四年)には後水尾天皇が幕府に許可無く大徳寺の僧などに紫衣着用の勅許を与えたことが問題となり、これに抗議した住持の沢庵宗彭らは流罪となった(紫衣事件)。しかし沢庵は後に赦され、徳川家光の帰依を受けて品川に東海寺を創建するなど寺勢は保たれた。
明治になると多くの寺領が公有地に編入され、塔頭も廃寺や合併が相次ぎ規模の縮小を余儀なくされた。

 
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