応仁の乱

応仁の乱:1467年~1477年(応仁元年~文明九年)
足利将軍家及びに斯波・畠山両管領家の継嗣問題に細川勝元と山名持豊の対立などが絡んで発生した内乱。
勝元の東軍、持豊(宗全)の西軍に分かれて激く争ったため京都の町は荒廃し、戦乱は全国へと拡大して戦国時代の幕開けとなった。応仁・文明の乱とも呼ばれる。
 
[gad]

畠山氏の家督争い

畠山内紛

1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で将軍足利義教が暗殺されると幼い義勝が将軍となっが、この頃相互に管領を務めた細川勝元と畠山持国は激しく対立するようになった。
1454年(享徳三年)、畠山氏に内紛が起こったことを機に勝元は岳父である山名持豊(宗全)と結び、これに介入。畠山氏は持国の子の義就と勝元らに支援された政長の勢力に分裂した。

斯波氏の家督争い

斯波氏をめぐる対立構造
1459年(長録三年)、将軍足利義政の弟で堀越公方の足利政知は幕府と対立した鎌倉公方足利成氏を討伐するよう斯波義敏に命じたが、義敏は執事の甲斐常治と内乱(長禄合戦)を起こしたため更迭された。
その後、義敏の実子の松王丸が斯波氏の当主とされたが、1461年(長禄四年)には政知の家臣で遠縁の渋川義鏡の子義廉が斯波氏を継ぐこととなった。
しかし、義鏡が失脚したため、将軍足利義政側近の伊勢貞親や相国寺蔭凉軒主季瓊真蘂は義敏の復権を画策。義廉に近しい山名持豊はこれに反発して畠山義就と提携して対抗した。

将軍家の継嗣問題と乱の勃発

八代将軍足利義政には長らく後継ぎとなる子がいなかったため異母弟の義視が継嗣となっていたが、1465年(寛正六年)、義政の妻日野富子が義尚を産んだため対立が生じた。
そんな中1466年(文正元年)、伊勢貞親らは将軍義政に働きかけて斯波家の家督を義廉から義敏に替えるさせることに成功し、さらに義視の暗殺を目論んだが、山名持豊らの反撃に遭い失脚(文正の政変)。
これにより側近を失った将軍義政は機能不全に陥り、有力守護大名同士の争いが表面化していくことになる。
持豊はこの間、畠山義就に挙兵させて京都に呼び寄せて体制を整えていた。1467年(応仁元年)1月、斯波義廉が政長の管領職を奪い義就が畠山氏の家督に復帰したため追い詰められた政長は義就軍と戦闘状態に陥るがあえなく敗れ(上御霊合戦)、室町御所は山名派によって掌握された。ここに約10年間にわたる応仁の乱が始まった。
応仁の乱東軍・西軍

広告

経過と終結

遅れをとった細川勝元だが参戦を決意し、赤松政則に播磨を攻めさせるなど地方において反撃を開始。5月には室町御所を奪い返すことに成功した(以降、山名派は御所西側の持豊邸を拠点としたため西軍、細川派は東軍と称された)。
両者は激しく争ったため京都の町は灰塵に帰し、地方でも争いが繰り広げられが決着はつかず膠着状態に陥った。
1473年(文明五年)、勝元と持豊が相次いで亡くなると厭戦気分が広がり、持豊の外孫でもある政元が細川氏を継いで、細川氏・山名氏の間には和睦が成立したが、残りの武将はなおも対立を続けた。
同年、義尚に将軍職が第九代将軍となると、将軍の母日野富子の指導によって幕府の機能の回復が進み、1476年(文明八年)には足利義視とも和睦が成立した。
さらに1477年(文明九年)、畠山義就が山城を退去し、大内政弘や土岐成頼も引き上げたため西軍は解体して、京都での戦闘は終わりを告げた。しかし、政長と義就の小競り合いは続き、幕府の権威は大きく失墜した。
 
[gad45]

広告