平将門:???~940年(???~天慶三年)
平安中期の武将。桓武平氏の流れを汲むが、父以来下総国に土着して勢力圏を築いた。
相続問題などから一族と抗争をくりかえし、伯父の平国香を殺害。
さらに常陸、下野、上野の国府を襲撃して関東を支配下に起き新皇を称したが、朝廷から派遣された藤原秀郷・平貞盛に討たれた
生涯
生まれた年代は不明だが、9世紀末から10世紀初めに平良将の子として下総国で誕生。
若いとき京に上り藤原氏の氏長者藤原忠平(880-949年)に仕えたが、満足な地位を得ることはできず下総に戻った。
935年(承平五年)頃、領地の分配や女性問題(諸説あり詳細は不明)などから一族などと争いを起こし、襲撃してきた常陸の豪族源護の子・扶を返り討ちにして伯父の国香を殺害。更に親類の平良正や国香の子貞盛を破った。
源護がこのことを朝廷に訴え出てたため将門らは京に召喚され詰問されたが、937年(承平七年)、朱雀天皇元服の大赦によって罪を問われることはなかった。
しかし、帰国した後も一族との争いは続き、ついにこれを抑え込み勢力圏を広げた。
939年(天慶二年)、武蔵国へ新たに赴任した国司の興世王とその部下源経基が郡司の武蔵武芝と起こした争いの調停にあたったが、経基によって再び朝廷に訴えられた。
将門は弁解しこのことで処罰されることはなかったが、常陸国(茨城)で国司藤原維幾と争った土豪藤原玄明が将門のもとに身を寄せ、常陸国府が引渡し要求するとこれを拒否し、国府を襲撃。
これにより反逆者とみなされた将門はさらに上野、下野、武蔵、相模などを支配下に置き、新皇を称して坂東八カ国の独立を宣言。しかし朝廷に討伐を命じられた藤原秀郷・平貞盛によって、翌940年(天慶三年)討ち取られた(将門の乱、藤原純友が起こした反乱と共に承平・天慶の乱とも)。
死後首は平安京でさらされたが、突然飛び去り関東へ帰ったなどの伝説を持つ。
平将門ゆかりの寺社・史跡
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