高野山金剛峯寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(高野山真言宗)
アクセス 南海電鉄極楽橋駅から南海高野山ケーブルで高野山下車。駐車場あり。
概要 和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山寺院。
816年(弘仁七年)、嵯峨天皇を開基として真言宗の祖である空海によって創建された。
元々一山全体が寺の境内であり、現在も金剛峯寺を中心に100を超える寺院が建ち並び、貴重な文化財が数多く残されている。
2004年(平成十六年)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。
見どころ 大門中門金堂根本大塔西塔不動堂霊宝館女人堂徳川家霊台奥の院
拝観時間 8時30分~17時(建物により多少前後する)
拝観料 金剛峯寺→500円、金堂→200円、大塔→200円、霊宝館→600円、徳川家霊台→200円
サイト http://www.koyasan.or.jp/
住所 和歌山県伊都郡高野町高野山132

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高野山金剛峰寺の見どころ

大門

山の西端に位置する高野山全体の総門にあたる五間三戸、高さ約25mの重層門。
初層左右には東大寺南大門の仁王像に次ぐ大きさといわれる仁王(金剛力士)像を安置する。
現存の建物は1705年(宝永二年)の再建で、重要文化財に指定されている。

中門

金堂の前に位置する重層門。
以前にあった中門は1843年(天保十四年)に焼失し、長らく再建されることはなかったが、2015年(平成二十七年)、現存の門が172年ぶりに再建された。
焼失以前の中門にあった持国天像・多聞天と新たに造られた増長天像・広目天像を安置する。

金堂

前金堂は1926年(昭和元年)に焼失し、現存の建物は1934年(昭和九年)の再建。京都帝国大学教授などを務めた建築家の武田五一(1872-1938年)の設計で、鉄筋コンクリート製となっている。
堂内の仏像も焼失時に失われ、現在は、高村光雲(高村光太郎の父)作の本尊阿閦如来像(薬師如来とも。秘仏)を安置する。壁画は木村武山の筆によるもの。

根本大塔

現存の塔は1937年(昭和十二年)の再建。
内部には、中央に胎蔵大日如来像、その四方に金剛界四仏を安置し、柱(十六大菩薩)と壁(八祖像)には堂本印象による仏画が描かれている。

西塔

空海の計画に基づいて2世の真然大徳が建てたのがはじめたが、現存する建物は1834年(天保五年)の再建。
内部には、胎蔵大日如来像と胎蔵界四仏を安置する。重要文化財に指定。

不動堂

1197年(建久八年)に鳥羽上皇の皇女八條女院の発願で建立。
元は違う場所にあったが、1908年(明治四十一年)に現在地に移築された。国宝に指定。

霊宝館

高野山に伝わる数々の文化財を収蔵、展示するための施設。
国宝21件、重要文化財143件、重要美術品2件を数え、主な収蔵品には仏涅槃図(国宝)、阿弥陀聖衆来迎図(国宝)、五大力菩薩像(国宝)、不動明王坐像(重文)、諸尊仏龕(国宝)、八大童子立像(国宝)、聾瞽指帰(国宝)などがある(展示品は定期的に入れ替わる)。
開館時間は、5月~10月が8時30分~17時30分、11月~4月が8時30分~17時。入場料は大人600円、高校生・大学生350円、小中学生250円となっている。

女人堂

高野山では1872年(明治五年)まで女性の立ち入りが禁止されており、女人堂は各登り口に設けられた女性のための参籠所のこと。現在は一ヶ所だけ残っている。

徳川家霊台

1643年(寛永二十年)に江戸幕府三代将軍徳川家光の支援で建立。
いわゆる東照宮の一種であり、右側の建物に徳川家康、左側の建物に徳川秀忠を祀る。

奥の院

諸堂からかなり離れた山中にある霊廟。
弘法大師空海が亡くなったとされる場所であり(現在も生き続けているという伝説もある)、中世以降聖地として熱烈な信仰を集めた。

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歴史

留学先の唐から戻った空海が816年(弘仁七年)、嵯峨天皇から高野山を与えられて真言密教の道場としたことが始まり(その7年後には、同じく嵯峨天皇から東寺を与えられている)。
創建に関しては、空海が寺院設立に適した土地を探している時、大和宇智郡で黒と白の二匹の犬を連れた異形の猟師に出会い、この犬についていくよう告げられたのでその通りにすると、紀伊国天野で丹生明神という神に出会い、高野山を譲られたという話も伝えられている(丹生明神は丹生都比売神社に祀られている)。
空海は壮大な伽藍を建てることを計画したが、その生前にはごく一部しか実現せず、跡を継いだ真然によって伽藍が整備され、寺院としての体裁を整えていった。
その後、災害などが相次ぎ一時衰退したが、定誉によって再興され、皇族・貴族や武家の参詣も盛んになった。
戦国時代には世俗権力と衝突するようになり、1581年(天正九年)、織田信長軍に攻め込まれ、豊臣秀吉も焼き討ちを計画したが、当寺の僧木食応其の働きによりこれを逃れ、逆に秀吉によって興山寺、青巌寺が創建された。
明治に入ると、女人禁制が解かれて、高野山の土地を国に返納するなどの変化を余儀なくされたが、現在も広大な敷地に多数の堂宇が建て並んでいる。

 
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