鎌倉の大仏の歴史

[spp]

初めは木製だった!?

鎌倉の大仏こと銅造阿弥陀如来坐像をその見た目のインパクトも強く、修学旅行の学生や観光客が絶え間なく訪れる鎌倉を代表する観光スポットとして知られますが、奈良の大仏が聖武天皇による一代国家事業として鋳造されたのに対し、鎌倉の大仏は一寺院が主体となって造られたこともあり、事情を史料が乏しく、その歴史には謎が多いのです。
鎌倉幕府編纂の歴史書「吾妻鏡」などによれば、浄光という遠州の僧が勧進で資金を集め(頼朝の侍女稲多野局の発願とも)、1238年(暦仁元年)から造られ始め、1243年(寛元元年)に完成したとされます。
しかし、この像は木製の像であり、1253年(建長四年)に改めて金銅大仏の鋳造が開始されたことが記録されます(木製の大仏がどうなったかは不明で、金銅大仏の原形になった説や何らかの原因で失われた説があります)。
この時鋳造されたのが現存する大仏と考えられていますが、いつ頃完成したかについては記録がなく、不明です。
鋳造に関わった人物としては鎌倉鋳物師の棟梁物部重光、丹治久友、大野五郎右衛門らの名が残されています。

大風や津波で露座に

こうしてともかく完成した金銅の大仏は、はじめ大仏殿の中に納められていたのですが、1335年(建武二年)と1369年(応安二年)に大風で倒壊し、1498年(明応七年)には明応地震による津波で流されてついに露座になってしまいました。
失われた大仏堂は幅44m、奥行き42.5mもある巨大な建物であったといわれ、高徳院の境内には今も大仏殿の礎石が56基残されたいます。

祐天上人が修復

その後、満足に修復も行えない状況が続き、荒廃が進みましたが、1712年(正徳ニ年)、芝増上寺の住持などを務めた浄土宗の高僧祐天(祐天寺の語源でもある)が浅草の商人野島新左衛門泰祐の支援で鋳掛修復を行い、これを機に高徳院も浄土宗の寺院になりました。
こうして近代を迎え、鎌倉が観光地として賑わうようになると大仏はそのシンボルとして多くの人を引き付けるようになったのでした。

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年表

1238年(暦仁元年)、木造大仏(阿弥陀如来坐像)が造られ始める。
1243年(寛元元年)、木造大仏完成する。
1253年(建長四年)、金銅大仏の鋳造が開始される。
1335年(建武二年)、大風で大仏殿倒壊。
1369年(応安二年)、大風で大仏殿倒壊。
1498年(明応七年)、津波で大仏殿が流される。
1712年(正徳二年)、祐天らによって鋳掛修復。
1923年(大正十二年)、関東大震災で台座が歪み、位置がずれる。
1925年(大正十四年)、台座などが修復される。
1960年(昭和三十五年)、耐震補強工事が行われる。翌年に完了。
2016年(平成二十八年)、1月から修復工事が行われる。3月には拝観を再開。

 
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