新田義貞:???~1338年(???~建武五年/延元三年)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1333年(元弘三年/正慶二年)、挙兵すると鎌倉に攻め入り鎌裏幕府を滅亡させた。
その後建武の新政下で重用され、足利尊氏の離反後も後醍醐天皇方についた。
1338年、尊氏軍に敗れ戦死。
挙兵以前
義貞は新田朝氏の嫡男として誕生するが、年代は不明で、1302年(乾元元年)とも1300年(正安二年)ともされる。
新田氏は清和源氏の一流で、新田義重が上野南東部に荘園を開発し(=新田荘)、一族は代々これを支配した。
頼朝とも親類の関係にあるが、挙兵の際に自立の動きをしたため鎌倉幕府で重要な地位を占めることはなかった。
義貞もこの新田荘で育ち、1318年(文保二年)には父の後を継いで新田宗家の八代当主となっている。
1332年(正慶元年)、後醍醐天皇の皇子護良親王と楠木正成が兵を挙げると、大番役として京都にいた義貞はこれを鎮圧する幕府軍に参加する。
しかし1333年(元弘三年)3月、病気を理由に勝手に新田荘に帰ってしまう。
一説には護良親王と通じていたためともされるが、はっきりとしたことは不明。
同年五月、上野国生品明神で討幕の兵を挙げる。
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鎌倉攻め
挙兵した義貞の元には足利尊氏の嫡男・千寿王(後の義詮)を始め各地の武士達が合流し、軍勢は膨れ上がった。
分倍河原の戦いに勝利した義貞軍はそのまま鎌倉へ攻め入るが、三方を山に囲まれた鎌倉の護りを硬く、苦戦を強いられる。
5月21日、極楽寺近くに陣をとった義貞は稲村ヶ崎を突破、前浜(由比ヶ浜)で幕府軍と壮絶な戦闘の末、勝利した。
稲村ヶ崎を通る際、海に剣を投げ入れたところ潮が引き海岸伝いに行くことができたとの伝説が残されているが、一般には干潮によるものだと考えられている。
義貞軍に追い詰められた北条高時ら北条一門は東勝寺で自害し、鎌倉幕府はここに滅亡した。
鎌倉を占拠した後、義貞は大御堂(勝長寿院)へ、千寿王は二階堂の別当坊へ入ったが、武士としての格の上な千寿王の方に人が集まり両者の間に対立が生まれたとされる。
こうした影響もあってか7月には鎌倉を発ち京都へ向かった。
建武の新政と最後
京都に着いた義貞は後醍醐天皇から従四位を賜り、左馬助に任命された。
更に上野、越後、播磨の国司となり、その後も重要な官位を獲得していった。
やがて足利尊氏と後醍醐天皇は対立するようになり、1335(建武二年)、義貞を総大将として尊氏討伐軍が編成された。
中先代の乱を機に鎌倉を占拠していた尊氏を討つべく、京を出発した義貞軍は連戦連勝を重ねたが、足柄で敗れ敗走した。
そのまま攻め上がった足利軍に京都を奪われるが、北畠顕家らの援軍を得て再び取り戻すことに成功、尊氏を九州へ追い落とす。
1338年(延元三年)、楠木正成と尊氏討伐に向かったが敗戦し、逃げ延びた先の越前国藤島で死去した。
新田義貞ゆかりの寺社・史跡
- 稲村ヶ崎
- 由比ヶ浜
- 九品寺
義貞が開基とされている。 - 小動神社
ここで義貞が剣を投げ入れると潮が引き鎌倉に攻めいることができた。
幕府軍と激戦になった場所。周辺ではこの時の死者のものと思われる大量の遺骨が見つかっている.
鎌倉に攻め入る前に立ち寄り、黄金と太刀を捧げたという。
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