神護寺

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基本情報

知名度 ★★★
平均評価


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種類 寺院(高野山真言宗)
アクセス 京都駅からJRバス「山城高雄」徒歩20分。烏丸線四条駅からバスで「高尾」下車徒歩20分。市営駐車場あり。
概要 神護寺は京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある真言宗の寺院で、正式には高雄山神護国祚真言寺という。
詳しい創建の事情は不明な点も多いが、当地にあり和気氏により再興された高雄山寺と和気清麻呂が河内に建てた神願寺が、824年(天長元年)頃合併してできたのが神護寺とされる。
唐から戻った空海が長らく住持を務め活躍したことでも知られ、最澄も当寺で法華会を行っている。
密教美術や古文書など貴重な文化財が多く伝わり、「伝源頼朝像」など国宝に指定されている物も数多い。また紅葉の名所としても有名。
見どころ 鐘楼金堂大師堂多宝塔錦雲渓
拝観時間 9時~16時
拝観料 500円
サイト http://jingoji.or.jp/
住所 京都市右京区梅ヶ畑高雄町5

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神護寺の見どころ

鐘楼

境内の北側にあり、建物は1623年(元和九年)頃の再建。楼上に吊るされている875年(貞観十七年)鋳造の梵鐘は、藤原敏行が書を書き、橘広相が詞を、菅原是善が銘を作ったというもので、当時超一流の文人三人が関わったことから「三絶の鐘」と呼ばれる。平等院三井寺(園城寺)の鐘と共に日本三名鐘に数えられ、国宝に指定されている。

金堂

建物は1934年(昭和九年)に実業家の山口玄洞の寄進で建立されたもので比較的新しいが、内部には本尊の薬師如来立像(国宝)や脇侍の日光・月光菩薩(重文)、十二神将、四天王像を安置する。高さ170cmの薬師如来立像は、頭部から台座までカヤを使った一木造で、神護寺の前身である河内の神願寺、あるいは高雄山寺の本尊だったと考えられている。また堂内には「伝源頼朝像」の模写なども展示されている。

大師堂

元は「納涼房」と言う名の空海の住房だったと伝えられ、現在の建物は桃山時代頃に再建されたもの。内部には、1302年(正安四年)に仏師定喜が土佐国金剛頂寺の空海像をモデルに彫ったといわれる板彫弘法大師像(重文)が安置されている。通常は非公開で、11月1日~11月15日のみ一般公開される。

多宝塔

金堂の斜め背後にある塔で、こちらも山口玄洞の寄進で1934年(昭和九年)に再建された。内部には、836年(承和三年)頃造られたとされる像高90cm桧一木造の五大虚空蔵菩薩坐像(国宝)を安置する。五大虚空蔵菩薩は、虚空のように無限の知恵と福を持つ虚空蔵菩薩の姿を5体に分け表現したもので、中央の法界虚空蔵(白色)、東方の金剛虚空蔵(黄色)、南方の宝光虚空蔵(緑色)、西方の蓮華虚空蔵(赤色)、北方の業用虚空蔵(黒色)から成る。公開は5月中旬~10月中旬のみで、事前も申し込みが必要。周りでは紅葉も美しい。

錦雲渓

境内西端の地蔵院の下は錦雲渓と呼ばれる渓谷になっており、清滝川が流れる。ここでは、売店で売られている素焼きの皿を買って、地蔵院前の広場から錦雲渓に向かって皿を投げ入れ厄を祓うかわらけ投げが行われている。また、この渓谷は高雄の中でも屈指の紅葉ポイントとして知られる。

御朱印・御朱印帳

種類 ①西国薬師第四十四番「薬師如来」の御朱印、②仏塔古寺霊場第七番「薬師如来」の御朱印
入手場所 本堂内納経所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 境内の様子が描かれたオリジナル御朱印帳があります。
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歴史

古くからこの地にあった高雄山寺と782年(延暦元年)に和気清麻呂がに建てた神願寺が、824年(天長元年)頃合併したのが神護寺の始まりとされる。
和気清麻呂(733-799年)は平安時代初期に活躍した政治家で、称徳天皇の寵愛を受けていた僧道鏡が宇佐八幡神の信託を理由に天皇になろうとした際に、宇佐八幡宮に赴きよのような信託は無かった事を告げたため、怒りを買い流罪となり別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられた。道鏡の失脚後赦された清麻呂が宇佐八幡神のために建てたのが神願寺で、その所在地は河内国石河郡とも長岡京付近ともされる。
一方高雄山寺とも関係があり、781年(天応元年)に和気清麻呂を奉行として愛宕権現を愛宕山の頂に祀った際に高雄山寺は愛宕五坊の一つに数えられた。更に清麻呂はここで亡くなり、802年(延暦二十一年)には清麻呂の子弘世により最澄を招いて法華会が行われている。
809年(大同四年)には空海が高雄山寺に住し、灌頂(頭の上に水を注ぐ密教の儀式)を最澄や弟子の泰範に行った。
そして824年(天長元年)、和気真綱から神願寺の建っている土地は穢れがあり、寺院にふさわしくないので高雄山寺に合併したいとの申し出があり、神護国祚真言寺が誕生した。本尊薬師如来立像や五大虚空蔵菩薩坐像はこの時に神願寺から移されたものだとされる。
しかし、994年(正暦五年)や1149年(久安五年)に火災に遭い衰微したといい、1168年(仁安三年)に神護寺を訪れた文覚(1139-1203年)は荒廃ぶりにショックを受け、後白河法皇や源頼朝の支援を取り付けて復興を開始した。文覚の死後、弟子の上覚(行慈)が後を継ぎ復興を完成した。この頃上覚の甥である明恵も入山している。
その後、戦国時代の争乱の中で神護寺も争いに巻き込まれ衰退し、江戸時代中期頃には復興されたが、明治になると廃仏毀釈や上知の影響で多くの寺領を失うこととなった。
なお当寺には教科書などおなじみの源頼朝の肖像が伝えられている(描かれている人物は源頼朝ではなくて、足利尊氏あるいは足利直義とする説もある)が、現在は京都国立博物館に寄託されているので寺には無い。

 
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