清水寺

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(北法相宗)
アクセス 京阪本線五条駅から徒歩25分。またはバスで清水道下車、徒歩10分。→詳細
概要 清水寺は京都市東山区清水にある北法相宗の寺院。
寺伝によれば、奈良時代末期に大和国子島寺の僧延鎮を開山、坂上田村麻呂(あるいは行叡居士)を開基として創建されたといい、現在では京都でもトップレベルの人気を誇る観光スポットとなっている。
本尊には三十三年に一度しか開帳されない秘仏の千手観音で、西国三十三所観音霊場第十六番札所、洛陽三十三所観音霊場第十二番札所となっている。
毎年12月には日本漢字能力検定協会によって今年の漢字が発表され、貫主が清水の舞台に広げた巨大な和紙に大きな筆を使い選ばれた漢字を揮毫する様子はニュースでもよく取り上げられる。紅葉の名所としても有名。
見どころ 馬駐善光寺堂仁王門鐘楼西門三重塔随求堂開山堂轟門朝倉堂本堂清水の舞台地主神社阿弥陀堂音羽の滝奥の院アテルイ・モレの碑成就院子安塔
拝観時間 6時~18時(夜間特別拝観は18時30分~21時30分)
拝観料 300円(夜間特別拝観400円)、小中学生200円
サイト http://www.kiyomizudera.or.jp/
住所 京都市東山区清水1

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清水寺の見どころ

馬駐

参拝にきた武士や貴族が馬を留めておくための建物で、日本最古の厩の遺構とされる。
正面約10.5m、側面5mあり、同時に五頭の馬を繋ぐことができる。馬を留める金具が二箇所だけ逆につけられているのが謎とされる。

善光寺堂

馬駐手前にある建物で、如意輪観音坐像、阿弥陀如来三尊像は、地蔵菩薩立像を安置する。洛陽三十三所観音霊場第十番札所。

仁王門

現存の門は応仁の乱で焼失した後に再建されたもので、1623年(寛永六年)の大火では焼けずに残った。
平安時代の貴族で三蹟の一人に数えられる藤原行成の筆と伝えられる「清水寺」の額が掲げられている。2003年に解体修理が行われており、鮮やかな朱色が印象的。

鐘楼

仁王門の奥に位置する建物で、現存のものは1607年(慶長十二年)の再建。
1478年(文明十年)に奉納された四代目の梵鐘が長らく吊るされていたが、2008年(平成二十年)から五代目の鐘に代わり、四代目は宝蔵殿に引退した。

西門

三重塔の前に建つ八脚門。
元がいつから建っていたかは不明だが、現存する門は1631年(寛永八年)の再建で桃山様式の派手な造り。

三重塔

西門の先に建つ高さ約31メートルの塔。
847年(承和十四年)に建てられたのが最初で、1632年(寛永九年)に現存の塔が再建された。1987年(昭和六十二年)には解体修理が行われている。一重部分の内部には大日如来像が安置されている。三重塔としては日本最大級。

随求堂

清水寺の塔頭慈心院の本堂で、堂内には豊臣秀吉も篤く信仰したという本尊の随求菩薩像や毘沙門天像、吉祥天像を安置する。
現存の建物は1718年(享保三年)に盛松という僧によって再建されたもので、堂の地下に随求菩薩の胎内に見立てて作られた暗闇の空間があり、壁に設置された数珠を頼りに巡る「胎内めぐり」が体験できる(9時~16時、100円)。

開山堂

清水寺の創建に関わった人々(詳しくは歴史の項を参照)を祀り、田村麻呂公夫妻像や行叡居士坐像、延鎮上人坐像が安置されている。田村堂とも。内部は通常非公開。

轟門

本堂の前に位置する八脚門。
現存するの建物は本堂と同じく徳川家光の寄進で、1631~33年(寛永八年~寛永十年)頃の再建されたもの。

朝倉堂

1510年(永正七年)に越前の守護大名朝倉貞景の寄進で建てられたお堂。、
現在の建物は1633年(寛永十年)に再建されたもので、千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩などを祀り、洛陽三十三所観音霊場第十三番札所となっている。

本堂

現存の建物は1633年(寛永十年)に東福門院の発眼、徳川家光の寄進で再建されたもの。
中部は内々陣、内陣、外陣に別れ、内々陣には3基の厨子があり、中央に本尊の十一面千手観音、右に昆沙門天像、左に勝軍地蔵菩薩像を安置する。本尊は秘仏で普段見ることができないため、内々陣の厨子の前には、本尊の姿を映し出した御前立像が安置されている。
本堂入り口には山伏が置いていったという鉄の錫杖と高下駄あり力試しで持ち上げることができる。これらは弁慶と義経にまつわる伝説から「弁慶の錫杖と高下駄」とも呼ばれる。

清水の舞台

本堂から突き出すように懸造(舞台造)で建てられているのがあの有名な「清水の舞台」。
清水の舞台から飛び降りると言う言葉通り、飛び降りるのには相当の覚悟のいる錦雲渓の急な崖に、最長約12メートルの巨大なケヤキの柱139本で組上げられている(釘は一本も使われていないという)。
もともとは雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲などの芸能を奉納するために使われていた場所で、現在でも舞台奉納が行われることがある。「義経記」では五条天神社で戦った義経と弁慶が再び刃を交える舞台となっている。

地主神社

清水寺境内にある神社。
明治の神仏分離令により現在は独立した神社となっているが元々は清水寺と一体の存在だった。縁結びにご利益があるとして有名。

阿弥陀堂

奥の院の隣の建物で、現存の堂宇は1631-33年(寛永八-十年)の再建。京都六阿弥陀如来念仏の一人である阿弥陀如来坐像を本尊としている。
浄土宗の開祖である法然上人が1188年(文治四年)に初めて常行念仏を始めた場所でもあり、法然上人二十五霊場第十三番札所となっている。

音羽の滝

本堂横の石段を下った所にある滝で、屋根に引かれた3つの筧から流れ落ちてくる水は万病に効くと言われる。この地の水は「黄金水」「延命水」として古くから知られ、清水寺の寺名の由来ともなっている。
もとは滝行を行うための場所であり、開基の行叡居士、開山の延鎮上人もここで修行したという。

奥の院

音羽の滝の背後に建つ建物で、本堂と同じく1633年(寛永十年)に再建されたもの。行叡居士と延鎮上人が修行の際に使っていた草庵の跡だと伝えられている。
堂内には秘仏の本尊三面千手観音像や脇侍地蔵菩薩、毘沙門天像、弘法大師像などを安置し、裏には小池の中に置かれて石造の観音像「濡れ手観音」があり、水を掛けて祈願するとご利益があるという。
また、礼堂の上り縁には「ふれ愛観音」よ呼ばれる金属製の観音像が置かれている。目見えない人々にも、手で触って拝んで欲しという願いから清水寺信徒であった仏師西村公朝(1915-2003年)によって寄進されたものという。

アテルイ・モレの碑

清水寺の創建に関わる坂上田村麻呂が東北で討伐した蝦夷の首長阿弖流為と母禮を記念した石碑。
平安建都1200年を記念して1994年(平成六年)に有志によって建立された。「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」とある。

成就院

清水寺の塔頭の一つ。普段は見ることが出来ないが、春と秋の年二回特別公開される期間がある。
現在の建物は、1639年(寛永十六年)に後水尾天皇の中宮であった東福門院和子の寄進で再建されたもの。
相阿弥作あるいは松永貞徳作で小堀遠州の補修と言われる美しい庭園があり、国の名勝に指定されている。
幕末には勤皇派として活躍した月照、信海兄弟が住したこともあり、近衛忠熈公、西郷隆盛公などの勤皇派の志士が密談する場所となっていたという。

子安塔

清水寺の塔頭の泰産寺にある三重塔。高さは約15mと西門近くの三重塔の約半分。
創建年代は不明だが、現在の建物は1500年(明応九年)再建のもので、2013年(平成二十五年)に修復が行われ装いを新たにした。内部には本尊の千手観音(子安観音)を安置し、安産や子育てに霊験があるという。

御朱印と御朱印帳

種類 ①西国十六番(洛陽十二番)「大非閣」(本堂)、②御詠歌の御朱印(本堂)、③洛陽十四番泰産寺「大非閣」、④洛陽十三番朝倉堂「大非閣」、⑤洛陽十番善光寺堂「大非閣」、⑥楽浪十一番善光寺堂「大非閣」、⑦「法然上人二十五霊場第十三番阿弥陀堂「阿弥陀如来」、⑧瀧堂「不動明王」
入手場所 ①~⑥は本堂内の御朱印所 ⑦は阿弥陀堂、⑧は瀧堂?
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 清水の舞台がデザインされた御朱印帳があります。値段は1200円。
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清水寺の歴史

778年(宝亀九年)、大和国高取の僧延鎮(賢心)が夢のお告げに従って山背国へ行くと清水滴る音羽山たどり着いた。そには草庵を開き滝行をしている行叡居士という老僧がおり、賢心を見ると霊木を渡し千手観音像を彫るよう言い残していなくなってしまった。行叡居士が観音様の化身だと悟った賢心は早速千手観音を彫り上げ行叡の居た草庵に安置した。
伝承によればこれが清水寺の始まりだといい、更に780年(宝亀十一年)、後に蝦夷討伐に活躍し征夷大将軍となる武人坂上田村麻呂が妻高子の安産のために鹿の生き血を求めてこの地へ至り、美しい水をたどっていくと賢心に出会い、霊場での殺生を戒められて賢心に帰依して本堂を寄進したという。
798年(延暦十七年)には2人で伽藍を作りかえ本尊の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、805年(延暦二十四年)には田村麻呂が周辺の土地を賜り寺観を整え北観音寺と称し、以来坂上氏の氏寺となり田村麻呂の子孫が代々別当を務めた。
847年(承和七年)には三重塔が完成するが、976年(貞元元年)には地震で倒壊。更に1063年(康平六年)と1091年(寛治五年)には火災で焼失したが、1094年(嘉保元年)に興福寺の支援で再建された。
この頃から観音霊場として知られており、平安京の貴族や庶民達の信仰を集めたが、本山となった興福寺と比叡山延暦寺の対立関係から延暦寺や末寺の祇園感神院と争いを繰り返した。
1113年(永久元年)や1165年(永万元年)には僧兵によって寺を破壊されたり焼き討ちい、また火災にもしばしば見舞われ、建物は焼失しては再建されを繰り返した。
1469年(文明元年)には応仁の乱に巻き込まれ焼失し、再建のために時宗僧の勧請聖願阿弥が迎えられた。
1629年(寛永六年)にも火災で大部分が焼け、今日残されている建物の多くはその後の1633年(寛永十年)前後に徳川家光の援助で再建されたもの。
1965年(昭和四十年)、法相宗から独立して北法相宗の本山となった。
本堂は国宝、鐘楼、西門、馬駐、木造千手観音坐像、渡海船額、鉄鰐口などが需要文化財に指定されている。また1994年(平成六年)には「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録された。

 
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