金戒光明寺

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基本情報

知名度 ★★★
平均評価


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種類 寺院(浄土宗)
アクセス 市バス岡崎道下車徒歩10分。地下鉄東西線蹴上駅徒歩30分。駐車場30台分あり(800円/日)
概要 金戒光明寺は京都市左京区黒谷町にある浄土宗寺院で、「くろ谷さん」の愛称でも親しまれている。
法然が最初に開いた草庵が起源で、浄土宗の大本山の1つとなっており、新選組ゆかりの寺としても知られる。
境内には御影堂(大殿)、阿弥陀堂、三重塔、大方丈などがあり、春には桜が秋には紅葉が美しい。
11月には夜間拝観が行われ、庭園や紅葉がライトアップされる。
所蔵の文化財に木造千手観音立像、絹本著色山越阿弥陀図、絹本著色地獄極楽図、一枚起請文などがある。
見どころ 山門御影堂阿弥陀堂三重塔
拝観時間 9時~16時
拝観料 境内自由(特別公開は有料)
サイト http://www.kurodani.jp/
住所 京都府京都市左京区黒谷町121

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金戒光明寺の見どころ

山門

境内南に位置する1860年(万延元年)再建で入母屋造本瓦葺の門。楼上には後小松天皇筆の「浄土真宗最初門」の扁額が掲げらている。
山門から御影堂に続く石段横には桜が植えられており、春には花で覆われる。また、秋には紅葉も美しい。

御影堂

1944年(昭和十九年)再建の、正面七間側面六間、入母屋造本瓦葺の建物。
内部には75歳時法然をモデルにした法然座像や吉備真備(695-775年)が唐から持ち帰った木材で造らせたといい、吉備観音とも呼ばれる千手観音立像が安置されている。

阿弥陀堂

1605年(慶長十年)、豊臣秀頼によって再建されたもので、境内に現存する建物で最も古い。
内部には恵心僧都最後の作と伝えられる本尊阿弥陀如像が安置されている。この像の胎内には彫刻道具が納められていることから「ノミ納め如来」「ノミおさめ如来」と通称される。

三重塔(文殊塔)

1633年(寛永十年)に、徳川秀忠の菩提を弔うために建立された塔。
内部には文殊菩薩と脇侍像が安置されていたが、現在は御影堂に移されている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「南無阿弥陀如来」の御朱印、②「五劫思惟」の御朱印、③洛陽六番「吉備観音」の御朱印、④日本三文殊「中山文殊」の御朱印、⑤法然上人二十五霊場第二十四番「最初門」の御朱印。
入手場所 御影堂内の朱印所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 五劫思惟阿弥陀仏が描かれた御朱印帳があります。サイズは18cm×12cm、値段は1000円。
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歴史

1175年(安元元年)、浄土宗の開祖である法然上人が比叡山西塔の黒谷別所を出て、白川(現在地)に草案を開いたのが金戒光明寺の始まりとされる。
白川禅房と呼ばれた当寺は初めは比叡山西塔黒谷の所有だったが、その住持の叡空が亡くなる際に法然に贈られ、信空へと受け継がれたれ、本坊の黒谷に対して新黒谷と称された。
第5世恵顗の時に仏殿、御影堂などの伽藍が建立され光明寺と号し、八世我観房運空の時に後光厳天皇から「金戒」の二字を賜り金戒光明寺と称するようになった。
十世恵照等煕は後小松天皇の帰依を受け、「浄土真宗最初門」の勅額を送られ、永享年間(1429-1441年)には室町幕府から僧に受戒することを許されるなど繁栄したが、応仁の乱で焼失した。
その後、十七世極譽理聖の代に復興が進み、1605年(慶長十年)には豊臣秀頼が方広寺大仏殿の余材で阿弥陀堂を建て、1613年(慶長十八年)には秀頼によって御影堂が再建された。
幕末の1862年(文久二年)には、京都守護職に就任した会津藩主松平容保によって本陣に定められ、1000名からなる軍隊が駐屯した。更に京都の取り締まりを強化するために近藤勇・土方歳三らの新選組を配下に置いた。
第二次大戦後、一時黒谷浄土宗として独立したが、現在は浄土宗鎮西派の大本山となっている、
山号の紫雲山は法然がこの地で念仏を唱えると空が光り紫雲が現れたとの伝承に基づく。

 
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