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基本情報
知名度 | ★★★ |
平均評価 | |
種類 | 寺院(臨済宗妙心寺派) |
アクセス | 市バス妙心寺徒歩3分、妙心寺北門すぐ。JR花園駅徒歩7分。京福電車妙心寺徒歩約6分。駐車場600円。 |
概要 |
妙心寺は京都市右京区にある臨済宗の寺院で、全国におよそ3500あるという妙心寺派の本山。 1342年(康永元年)頃、関山慧玄を開山として花園法皇の離宮萩原殿を改めて寺院としたのが始まり。 現在も広大な敷地を有し、法堂、仏殿、方丈などの伽藍や多数の塔頭が立ち並ぶ。国宝に梵鐘と大燈国師墨蹟2幅があり、重要文化財に指定されている寺宝も数多い。 |
見どころ | 三門、浴室、法堂、大方丈、大心院、東林院、桂春院、退蔵院 |
拝観時間 | 境内24時間。法堂・浴室は9時10分~11時40分、12時30分~、13時~15時40分(4~10月は16時40分)に、20分間隔でガイド付きで見て回る形式。 |
拝観料 | 境内自由。法堂・浴室大人500円、中学生300円、小学生100円 |
サイト | http://www.myoshinji.or.jp/ |
住所 | 京都府京都市右京区花園妙心寺町64 |
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妙心寺の見どころ
三門
南側の正式な入り口である勅使門は1610年(慶長十五年)の建立で、高さ9m幅5.6m切妻造檜皮葺の四脚門。普段は閉じられているが新たな住持が寺に入る時などに使われる。
その勅使門の正面に位置するのが高さ16m。幅15m重層入母屋造本瓦葺の巨大な三門。
通常入ることはできないが、楼上には観世音菩薩、十六羅漢を安置し、天井には龍や飛天が描かれている。
浴室
その名の通りかつて浴室として使われていた建物で、1587年(天正十五年)、明智光秀の叔父密宗和尚が光秀の菩提を弔うために建てたとされ、明智風呂とも呼ばれる。
現存の建物は1656年(明暦二年)再建の単層切妻造檜皮葺で、内部は蒸し風呂になっており、昭和初期までは実際に寺の僧侶達が使用していたという。有料で見学可能。
法堂
仏殿の正面にある建物。1656年(明暦二年)の建立で、正面七間側面六間の重層入母屋造。
内部の須弥壇には法要ごとに像を祀るため普段は何も置かれておらず、鏡天井には狩野探幽(1602-1674年)による八方睨みの龍雲図が描かれている。
使われているケヤキの柱は富士山麓から運ばれてきた高さ8m、周囲2mという壮大なもの。
また法堂には、浄金剛寺(廃寺)から移したもので戊戌年(698年)の銘を持ち日本最古とされる梵鐘(国宝)が置かれている。この鐘はその音色から「黄鐘調の鐘」とも呼ばれ、兼好法師の「徒然草」にも登場する。
大方丈
法堂の後方にある単層入母屋造檜皮葺の建物で、1654年(承応三年)の建立。
石清水八幡宮奥の院から移したという阿弥陀三尊像を安置し、狩野探幽と狩野洞雲による襖絵がある。
普段は非公開だが、11月3日、4日には寺宝は虫干しを兼ねて公開する曝涼展がここで行なわれ、見学することができる。隣には麟徳殿とも呼ばれる小方丈がある。
大心院
妙心寺の塔頭の一つで、書院前の阿吽庭と本堂前の切石の庭という2つの枯山水庭園が有名。
1492年(明応元年)、細川政元(1466-1507年)が妙心寺の景堂和尚を開山とし自身の邸宅を寺に改めて創建。その後、細川幽斎(1534~1610年)が再興して現在地へ移した。
妙心寺を訪れる僧が宿泊する場所として使われており、事前に予約すれば一般の人も泊まることができるという。拝観料300円、9時~17時。
東林院
妙心寺の塔頭の一つで、樹齢300年といわれる沙羅双樹が有名。
管領細川氏綱(1514-1564年)が、養父高国の菩提を弔うために創建した三友院が前身で、高国の孫である山名豊国が1556年(弘治二年)に妙心寺の直指和尚を開山として現在地に再興し、東林院と号した。
普段は非公開だが四季折々に行なわれるイベントの時だけ特別公開される。小豆粥の会(1月12日~31日、11時~15時)→3700円、沙羅の花を愛でる会(6月12日~30日、9時30分~16時)→1580円、梵燈のあかりに親しむ会(10月5日~14日、18時~21時)→500円。
また、事前に予約すればこちらも宿坊として利用することが可能。
桂春院
妙心寺の公開塔頭の一つ。清浄の庭、侘の庭、思惟の庭、真如の庭と名づけられた庭園はいずれも国の史跡・名勝に指定されており、ツツジや苔が美しい。
1518年(慶長三年)、織田信長の孫津田秀則が創建した見性院が前身で、1632年(寛永九年)、石河貞政が父の追善供養のため本堂を再建して桂春院と改めた。
方丈には狩野山雪(1590-1651年)作とされる襖絵がある。拝観料400円、9時~17時。
退蔵院
三門のすぐ西側に位置する公開塔頭。
1404年(応延十一年)、越前守波多野重通が妙心寺の無因宗因を開山として千本松原に創建し、応仁の乱で焼失した後に現在地に再建された。
方丈西側にある枯山水庭園は絵師である狩野元信(1476-1559年)の作と伝えられる珍しい庭。
その奥には中根金作(1917-1995年)によって作庭された池泉回遊式の余香苑がある。
退蔵院は如拙筆の有名な瓢鮎図(国宝)を所有しているが、本物は京都国立博物館に寄託されており、代わりに江戸時代の模作が飾られている。拝観料500円、9時~17時。
歴史
1337年(建武四年)、花園法皇は帰依していた宗峰妙超が病床に伏したため、新たな師を求め弟子の関山慧玄を推薦された。慧玄は世俗嫌いな性格で知られ当時も美濃の山中に篭っていたが、1342年(康永元年)頃、法皇の願いで開山となり妙心寺が創建された。
関山の修行を重視し世俗の出世を求めない姿勢は妙心寺の伝統となり、室町幕府と密接な関係を築いた五山十刹を中心とした叢林(禅林)に対し、林下と呼ばれる在野の教団を形成した。
1399年(応永六年)、応永の乱が起こると、反乱を起こした大内義弘と六世住持の拙堂宗朴が深い関係にあることを知った足利義満によって寺地をことごとく没収され壊滅した。
永享年間(1429-1441年)に寺地を一部返還され、再興が進んだが1467年(応仁元年)に始まる応仁の乱によって焼失し、元の状態に戻ってしまった。その後、後土御門天皇から妙心寺再興の綸旨を得た雪江宗深が、細川管領家の支援を取り付け復興が進められた。
復活した妙心寺は武士層から広く崇敬を受け、安土桃山時代から江戸時代初期にかけては各大名による塔頭の建立が相次ぎ、大寺院に成長した。江戸時代には、後水尾天皇が幕府の許可を得ずに紫衣を与えたことに端を発する紫衣事件で一時幕府と対立したが、深刻な事態には至らず繁栄を続けた。
現在では臨済宗妙心寺派の本山として塔頭46ヶ寺、末寺約3500ヶ寺を抱え、臨済宗の中で最大の規模となっている。
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