南禅寺

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(臨済宗南禅寺派)
アクセス 東西線蹴上駅から徒歩10分。市バス東天王町か南禅寺永観堂道前下車10分。駐車場あり(1000円/2時間)。駐輪スペースあり。→詳細
概要 南禅寺は京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の寺院。
1291年(正応四年)、亀山天皇が出家した際、自分の離宮を寄進して東福寺の無関善門を招き禅林寺を開いたのが始まりで、二世規庵祖円の時に南禅寺と改称した。
室町時代には五山別格とされた高い寺格を誇り、現在は臨済宗南禅寺派の総本山となっている。
見どころ 三門方丈方丈庭園南禅院金地院天授院慈氏院水路閣
拝観時間 12月1日~2月28日→8時40分~16時30分。3月1日~11月30日→8時40分~17時
拝観料 境内自由。方丈庭園→一般500円、山門→一般500円、南禅院→一般300円。
サイト http://www.nanzen.net
住所 京都市左京区南禅寺福地町86

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南禅寺の見どころ

三門

勅使門の奥に位置する巨大な門。
1295年(永仁三年)に西園寺実兼の寄進によって建てられたのが初めで、現在の門は1628年(寛永五年)に大阪夏の陣の戦死者を弔うため津藩主藤堂高虎が再建したものであり、天下竜門とも呼ばれる。
高さ22mで見晴らしがよく、石川五右衛門を描いた歌舞伎「楼門五三桐」では舞台として登場するが、三門が再建されたのは五右衛門の死後である。
五鳳楼の名付けられた楼上には、宝冠釈迦如来坐像や十六羅漢、徳川家康像、藤堂高虎像などが安置され、天井や柱には狩野派による龍や鳳凰の絵が描かれている。
知恩院、東本願寺の門と共に京都三大門、あるいは身延山久遠寺、東福寺の門と共に日本三大門に数えられることもある。
門の手前には落慶の際に信濃長沼藩主佐久間勝之が奉献した巨大な石灯籠がある。

方丈

大方丈と小方丈からなる建物で、内裏清涼殿あるいは女院御所の対面御殿を移築したものとされる大方丈は1611年(慶長十六年)の再建、小方丈は伏見城の遺構を移して寛永年間(1624-1644年)に移築したもの。
大方丈内部には狩野元信や狩野永徳などの狩野派の絵師によって描かれた襖絵が飾られているが、多くは精巧に複製されたもので本物は収蔵庫に保存されている。
小方丈内部には狩野探幽作と伝えられる群虎図の襖絵があり、特に水呑みの虎は名高い。

方丈庭園

大方丈の南側に面する庭園で、1629年(寛永六年)、小堀遠州の作庭と伝えられる江戸時代初期の禅宗の代表的な枯山水庭園。並ぶ6つの石組をとらに見立てて、虎の子渡しの庭とも呼ばれる。国の名勝に指定。

南禅院

亀山天皇の営んだ離宮に建てられた御堂護念院が1286年(弘安九年)に焼失した後に建てられたのが南禅院で、南禅寺発祥の地にあたる。
亀山天皇の造園ともされる鎌倉時代に作られた池泉式庭園があり、方丈には木像亀山天皇坐像が安置されている。

金地院

南禅寺の塔頭の一つ。南禅寺住持の大業徳基が応永年間(1394年~1428年)に北山に開いた寺を以心崇伝が1605年(慶長十年)に再興し現在地に移した。
以心崇伝は直後に南禅寺住持となり、徳川家康、秀忠、家光の帰依を受けて将軍のブレーンとして活躍した。
1627年(寛永四年)に大規模な工事が行われ大方丈、小方丈、東照宮、小堀遠州作で鶴亀の庭とも呼ばれる庭園、同じく小堀遠州によって作られた八窓席という名の茶室が完成した。

天授庵

南禅寺の塔頭のひとつ。
15世住持虎関師錬によって1339年(暦応二年)に創建され、開山の無関普門の塔所とされた寺院で、応仁の乱で荒廃したが、武将の細川幽斎の支援で再建された。
本堂の襖絵は長谷川等伯の筆だが非公開。書院南には新緑や紅葉の美しい池泉式庭園、本堂前には枯山水庭園がある。

慈氏院

南禅寺の塔頭の一つで、おあしがよる大師とも呼ばれる珍しい達磨大師の立像が安置されている。
五山文学を代表する学問僧義堂周信によって1387年(至徳四年)に創建。達磨堂とも。

水路閣

琵琶湖から水を引き京都市内に通すために作られた水路橋で、1885年(明治十八年)に建設が開始され、1890年(明治二十三年)に完成した。
田辺朔郎の設計で西洋風の作りだが、南禅寺の景観に意外と違和感無く溶け込んでいる。

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南禅寺の歴史

亀山天皇は1264年(文永元年)から南禅寺の建つこの地に離宮を営み禅林寺殿と称した。1289年(正応二年)、天皇は臨済宗に帰依し出家して法皇となり、91年(正応四年)には禅林寺殿を寺に改め、無関普門(大明国師)を開山に招いた。
しかし、無関はその年に亡くなったため伽藍創建は二世住職の規庵祖円によって進められることとなり、1299年(永仁七年)には寺観が整い、法王身から寺の規則を定めいくつかの荘園を寄進した。またこの頃龍安山禅林禅寺から瑞龍山太平興国南禅禅寺に寺名が改められた。
1334年(建武元年)、後醍醐天皇によって定められた五山の制で第一位となり、1386年(至徳三年)に足利義満によって定められた五山の制では京都五山・鎌倉五山の上という最高の寺格を与えられるなど臨済宗の中心寺院として繁栄したが、1391年(明徳四年)、と1447年(文安四年)には火災で多くの建物は焼失し、1467年(応仁元年)には応仁の乱に巻き込まれ破壊され尽した。
戦国時代には守護大名に領地を侵食され再建が進まず、本格的な復興は江戸時代になり以心崇伝が住持となってから行われた。
以心崇伝は徳川家康のブレーンとして重用されたため多くの寺領を与えられ、1606年(慶長十一年)には豊臣秀頼の寄進で法堂が再建され、1628年(寛永五年)には藤堂高虎の支援で三門が建てられた。
明治の初めには知上などによって寺領を失い、廃止となる塔頭も出るなどの打撃を被るがなんとか持ち堪え現在では京都でも人気の観光スポットのひとつとなっている。

 
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