三十三間堂

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(天台宗)
アクセス 京阪本線七条駅徒歩5分。市バス博物館三十三間堂前下車すぐ。→詳細
概要 京都市東山区にある天台宗の寺院で、正式には蓮華王院と言うが本堂内陣の柱の数から一般に三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)と呼ばれることが多い。
1164年(長寛二年)、後白河法皇によって法皇の離宮法住寺殿の一角に平清盛の協力で創建されたのが始まり。
細長い本堂には1001体の千手観音立像をはじめ、千手観音坐像、風神雷神像など大量の仏像が安置されており見るものを圧倒する。
本堂、木造千手観音坐像、木造二十八部衆立像、木造風神雷神像は国宝に指定。堂内は撮影禁止なので注意。
見どころ 本堂千手観音坐像千手観音立像二十八部衆立像風神雷神像築地塀
拝観時間 8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)
拝観料 一般600円、中高生400円、子供300円
サイト http://sanjusangendo.jp/
住所 京都府京都市東山区三十三間堂廻町657

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三十三間堂の見どころ

本堂(三十三間堂)

通称の三十三間堂の由来となっている細長い建物。
創建当初の建物が1249年(建長元年)に火災で焼失した後の1266年(文永三年)に再建されたもので、正面三十五間側面五間、前方に七間の拝殿が付く。入母屋造本瓦葺、実長は長さ約120m。奥行き約22m。
正面は三十五間だが、周囲につけられた庇の一間分が入っているので、それを除けば三十三間となる。
当初は朱塗りだったといい、内部は二重虹梁蟇股に化粧屋根裏の天井が使われていおり、千手観音坐像を中心にして左右に千手観音立像を500体ずつ配置し、前列に二十八部衆立像や風神雷神像を安置する。

千手観音坐像

須弥壇中央に安置されている高さ3.4m檜の寄木造の像で、三十三間堂の本尊。
最初の像は本堂と共に焼失し、現存の像は1251年(建長三年)に大仏師湛慶(運慶の嫡男)が弟子の小仏師康円・康清らと造り始め、1254年(建長四年)に完成した事が銘や台座心棒の墨書からわかっている。
また、銘の湛慶の名前の後には「生年八十二」と年齢が記されており、84歳で亡くなる湛慶の最晩年の作であったことが分かる。その価値は高く国宝に指定されている。

千手観音立像

本尊の周りを取り囲むのが1001体ある千手観音立像で、内124体が創建時に、876体が湛慶と弟子達によって再建時に、1体が室町時代に造られたもの。
表情はそれぞれ違うが、いずれも高さ166cm前後の寄木造で、漆箔が施されている。ちなみに、内何体かは京都国立博物館東京国立博物館に寄託されており、数えても1001体にはならないので注意。

二十八部衆立像

二十八部衆とは千手観音の眷属で、仏教の信者を守護するとされる28人の善神。
創建当初の像は、1249年(建長元年)に本堂が燃えた際救いだされたとされるが、現存のものは作風などから鎌倉時代の作だと考えられている。那羅延堅固像、大弁功徳天像、摩睺羅王が特に有名。

風神雷神像

堂内両端に安置されているのが高さ111.5cmの風神像と高さ100cmの雷神像であり、共に檜材の寄木造玉眼入りの表情豊かな像で、二十八部衆立像と同時期の作とされる。
風神雷神は元々インドの神で、中国に伝わり敦煌の壁画などに描かれたが、この像は日本で風神雷神をモデルとした仏教美術の中では最初期のもので、その後の風神雷神のイメージに大きな影響を与えた。

築地塀

境内南側にある高さ5.3m、長さ92mに及ぶ土塀のことで、1600年(慶長五年)に豊臣秀吉によって築かれたことから太閤塀ともよばれる。かつては西側にもあったが現在は南側のも残されている。
また、南東には同じく秀吉によって建てられた南大門がある。

御朱印・御朱印帳

種類 「大悲殿」の1種類。
入手場所 堂内の朱印所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 数種類あり。
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歴史

当地には後白河法皇が離宮としていた法住寺殿があり、1164年(長寛二年)平清盛の寄進でそこに仏堂として建てられたのが三十三間堂の始まり。清盛の父で忠盛は1130年(大治五年)に千体観音堂である得長寿院(1185年に地震で倒壊し現存せず)を鳥羽上皇に寄進しており、これに倣ったものと思われる。
1173年(承安三年)に法華堂、1177年(治承元年)に五重の塔が完成し寺観を整え、1192年(建久三年)に後白河法皇が亡くなった際には法華堂で葬儀が執り行われた。
しかし、1249年(建長元年)に火災に遭い諸堂や本尊と多くの千手観音を焼失した。現在の本堂はこの後の1266年(文永三年)に再建されたもので本尊千手観音坐像や千手観音立像の大部分もこの頃に造られた。
南北朝時代には衰微したが、豊臣秀吉から庇護を受け、北隣に方広寺大仏殿を創建した際に一緒に修理され、南大門、西大門、築地塀などが建てられた。
江戸時代の初め頃からは本堂北端から南端の的に向かって矢を射る「通し矢」が盛んに行なわれるようになった。これには矢数を決めて的中率を競う「百射・千射」や夕刻から始めて翌日の同じ時間まで矢を射り続け本数を競う「大矢数」があり、1686年(貞享三年)には紀州の和佐大八郎という18歳の若者が一昼夜で1万3053本の矢を射り、8133本を的中させたという驚異的な記録が残されている。一時は廃絶したが、現在もこれにちなんだ大的大会が一月に行なわれている。
所有の国宝に本堂(三十三間堂)、木造千手観音坐像、木造二十八部衆立像、木造風神雷神像があり、重要文化財に木造千手観音立像1001体、南大門、築地塀がある。
古くから妙法院と関係が深く、現在も独立した寺院ではなく妙法院の境外仏堂という形になっている。

 
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