等持院

[spp]

基本情報

知名度 ★★
平均評価


0

種類 寺院(臨済宗天龍寺派)
アクセス 京福電鉄等持院駅から徒歩10分。市バス立命館大学前下車徒歩10分。無料駐車場十数台分有り。
概要 等持院は京都市北区等持院北町にある臨済宗天龍寺派の寺院。
1341年(暦応四年)、足利尊氏が夢窓疎石を開山に招き、等持寺の別院北等持寺として創建し、1358年(延文三年)に足利尊氏が亡くなると当寺に葬られ、以後足利氏の菩提寺として庇護を受けた。
1380年(天授六年)には五山の下におかれた禅宗の寺格である十刹の首位とさるなど栄えたが、室町幕府滅亡後は衰微した。足利歴代将軍を祀る。
見どころ 庭園清漣亭霊光殿
拝観時間 8時~17時
拝観料 大人500円、小中学生300円
サイト なし
住所 京都府京都市北区等持院北町63

[gad]

等持院の見どころ

庭園

1616年(元和二年)に妙心寺海福院から移築した方丈の北には東西二つの池泉回遊式庭園がある。
東庭は夢窓疎石が作庭したもので、後に改造されているが当時の面影を残しているとも言われる。
池は心の字を象っていることから心字池と呼ばれ、庭の中央には足利尊氏の墓とされる宝篋印塔がある。

清漣亭

芙蓉池を中心として西庭にある茶室。長四畳で内一畳を貴人用の上段構えとする。
足利義政によって築かれたのが始まりだが、現存の建物は再建されたものだと思われる。

霊光殿

方丈の西側に建つ建物で、足利尊氏の念持仏だった本尊の地蔵菩薩像、夢窓疎石像、達磨大師像、足利尊氏をはじめとする歴代足利将軍の像が安置されている。
ただし、第五代将軍の足利義量と第十四代将軍の足利義栄の像は何故か存在しない。
幕末の1863年(文久三年)、尊王派の浪人によって足利尊氏・義詮・義満の木像の首が加茂川に晒されるという事件が発生した(足利三代木像梟首事件)。足利尊氏は後醍醐天皇と対立し北朝を作ったため、尊王派勢力からは国賊とされており、暗に徳川将軍家の批判をこめた行為だと捉えられ犯人は処刑された。
また霊光殿には、家康が42歳の厄落としの為に造らせ石清水八幡宮宝蔵坊に納められていた徳川家康像も安置されている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「等持院」の御朱印、②「利宝地蔵尊」の御朱印(ともにスタンプ)
入手場所 拝観受付
値段 1件200円
オリジナル御朱印帳 ないようです。
広告

歴史

1339年(暦応二年)、足利尊氏は三条坊門万里小路に等持寺(現在廃寺)を建て、1341年(暦応四年)、仁和寺の子院を前身として当地に別院北等持寺(現等寺院)を建立したとされる。開山には夢窓疎石を招き、後に天龍寺の末寺となった。
1358年(延文三年)に足利尊氏がなくなると墓所は北等寺院に作られ、寺名も等持院に改名された。
以後足利将軍家の菩提寺となり、十刹の制では首位になるなど高い寺格を誇った。
等持寺の方は火災や戦乱で衰微し、一時足利義政によって復興されたが、応仁の乱で焼け消滅した。等持院も室町幕府の終焉と共に衰退して境内は荒果てたが、豊臣秀吉によって復興された。
1808年(文政元年)に火災でほとんどの建物を焼失し、その後1818年(文政元年)に本堂が建てられるなど現在に続く伽藍が形成された。

 
[gad45]

広告