名古屋城

名古屋城城内マップ

[spp]

基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


0

種類 城・史跡
アクセス 地下鉄名城線市役所駅から徒歩5分。地下照鶴舞線浅間町駅から徒歩12分。名鉄瀬戸線東大手駅から徒歩13分。名鉄・近鉄・JR名古屋駅から徒歩30分またはバスで10分。駐車場あり(普通車180円/30分、バイク100円/30分)。
概要 名古屋城は愛知県名古屋市中区にある城。
1609年(慶長十四年)に徳川家康がそれまで尾張国の中心だった清州城に変わる城として築城を命じたのが始まりで、明治維新まで尾張藩の藩庁が置かれた。
維新後も破壊されることはなかったが、1945年(昭和二十年)の名古屋空襲で天守閣など多くの建物を失い、現存する天守は1959年(昭和三十四年)の再建。
天守の屋根に乗せられた金の鯱が有名で、金鯱城の別称もある。国の特別史跡で日本100名城のひとつ。
見どころ 正門表二之門二之丸庭園東南隅櫓西南隅櫓清正石天守閣本丸御殿西北隅櫓
開園時間 9時~16時30分(天守閣内部への入場は16時まで)。年末年始は休館。
入場料 大人500円、中学生以下無料、名古屋市内在住の高齢者100円。徳川園とのセット券あり。
サイト http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
住所 愛知県名古屋市中区

[gad]

名古屋城の見どころ

正門

城の入口に建つ門。
1910年(明治四十三年)に旧江戸城の蓮池御門が移築されたが、1945年(昭和二十年)の空襲で失われ、現存の建物は1959年(昭和三十四年)の再建。

表二之門(本丸南二之門)

西ノ丸と本丸の間に建つ門。築城時に建てられたものが今も残り、国の重要文化財に指定されている。

二之丸庭園

二の丸御殿は1620年(元和六年)に完成し、庭園もその頃までに整備されたが、享保年間(1716-36年)以降改修され枯山水回遊式庭園になったという。
明治以降一部が破壊され、現在は隣に戦後整備された二之丸東庭園がある。また庭園内に二の丸茶亭という茶屋があり、抹茶と茶菓子を頂くことができる。

東南隅櫓

本丸の東南隅に建つ櫓。創建時から残るもので、重要文化財に指定。辰巳櫓とも呼ばれる。

西南隅櫓

本丸の西南隅に建つ櫓。東南隅櫓とほぼ同規模で、こちらも重要文化財に指定されている。未申櫓とも。

清正石

本丸の石垣に使用されている巨石のことで、余りの大きさに運搬に手間取っていたところ加藤清正が自ら音頭をとって引き上げたものと伝えられる。ただし実際にこの部分を担当したのは黒田長政とされる。

天守閣

石垣は当時のものは残るが、建物部分は古図に基づき1959年(昭和三十四年)に再建された鉄筋コンクリート製(木造の天守閣に建て替えるという計画が存在する)。
2層2階地下1階の小天守閣と5層5階地下1階高さ約55mの大天守閣が橋台と呼ばれる通路で繋がった連結式天守で、大天守閣の屋根には名古屋城のシンボルである金鯱が置かれている。
内部は資料館となっており、本丸御殿に飾られていた狩野派の絵師による障壁画などの文化財や名古屋城の歴史を解説する展示がなされている。また最上層は展望室となっており、名古屋の街を一望することができる。

本丸御殿

江戸時代には将軍が上洛する際の宿泊所として使用されていた本丸御殿は1945年(昭和二十年)に天守などと共に焼失し、その後再建されることはなかったが、2009年(平成二十一年)から復元工事が始まり、2018年度(平成三十年度)の全体の公開が予定されている。

西北隅櫓

御深井丸の西北隅に建つ櫓。
清州城の古材転用して建築されたものといわれ、清須櫓とも呼ばれる。重要文化財に指定。

広告

歴史

前身とされる那古野城は大永年間(1521-28年)に今川氏豊が築城したのが始まりとされ、1532年(天文元年)に織田信秀が奪い、織田氏の城となったが、やがて使われなくなり安土桃山時代には廃城となった。
この頃、尾張国の中心は織田信長が一時本拠を置いた清須城周辺であり、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の四男である松平忠吉が清州城主となったが、忠吉が嫡子のいないまま28歳でなくなると家康九男の徳川義直が入り尾張藩初代藩主となった。
1609年(慶長十四年)、家康は清州城に変わる尾張藩の藩庁として那古野城跡に新たに城を築くことを決め、天下普請により加藤清正、福島正則、毛利高政ら主に西国方面の大名が動員されて築城が進められた(新たに名古屋城が築かれたのには大阪の豊臣氏に備える意味があったとされる)。
1612年(慶長十七年)に天守閣が完成し、1616年(元和二年)までには清洲城下町の寺社、商家などがことごとく移転され、以後、御三家のひとつ尾張徳川家が代々藩主を務めた尾張藩の藩庁及び藩主の居城として使用された。
明治維新後、尾張藩14代藩主の徳川慶勝は城の破却と金鯱の献上を申し出たが、貴重な城郭建築を取り壊すことに反対の声が挙がり、陸軍卿山縣有朋は保存を決定した。
しかし、1945年(昭和二十年)に米軍機による空爆で本丸御殿、天守閣などが焼失。戦後は、名城公園として整備され、失われた天守も再建されている。

 
[gad45]

広告