法隆寺

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(聖徳宗)
アクセス JR大和路線法隆寺駅徒歩20分。バス法隆寺門前下車すぐ。周辺に有料駐車場あり。
概要 法隆寺は奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の寺院、斑鳩寺とも呼ばれる。
創建年代については諸説あるが金堂薬師如来像の背光銘によれば607年(推古天皇十五年)に推古天皇と聖徳太子によって創建されたとされ、太子ゆかりの寺として知られる。
広い境内は南大門・金堂・五重塔などがある西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍に分かれ、国宝・重要文化財に指定されている建築物や仏像などの貴重な文化財が数多く残されている。
西院伽藍は現存する世界最古の木造建築群であり、1993年(平成五年)には「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産に登録されている。。
見どころ 南大門中門金堂五重塔大講堂大宝蔵院西円堂夢殿
拝観時間 2月22日-11月3日→8時~17時、11月4日-2月21日→8時~16時30分
拝観料 西院伽藍・大宝蔵院百済観音堂・東院伽藍共通→大人1500円、子供750円
サイト http://horyuji.or.jp/
住所 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1

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法隆寺の見どころ

南大門

法隆寺の入り口に位置する三間一戸単層入母屋造の八脚門。1031年(長元四年)頃、寺地の拡張にともなって現在地に移され、現存する建物は1438年(永享十年)の再建。東西へは「大垣」と呼ばれる築地が延びる。

中門

西院伽藍の正門で、正面四間(約12m)、側面三間(約8.5m)重層入母屋造。7世紀の建築。左右に安置されている金剛力士像は711年(和銅四年)の作で、日本最古の力士像とされるが後世の捕作の部分が多く、元は塑像だが吽形像は頭以外は木造となっている。柱は中央部に若干のふくらみを持つエンタシスと呼ばれる構造をしている。この柱は古代ギリシアでよく使われ、ヘレニズム期にシルクロードを通じて東方に伝えられたものとする説もある。また、梅原猛氏は正面が四間で入り口の中央に一本柱が入ることに注目して、著書「隠された十字架」の中で、法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めるために創建されたと主張している。現在は入り口としては使われていないため金堂や五重塔に行く場合は左右に巡らされた回廊の西端から入ることになる。

金堂

法隆寺の本尊を安置するための建物で、660年代の建立ともされ、世界最古の木造建築として知られる。1949年(昭和二十四年)、壁画の修復中に失火して壁画や初層の一部が焼けたため現在は復元された壁画を飾る。内部には釈迦三尊像・薬師如来坐像・阿弥陀如来座像・四天王像・吉祥天像・毘沙門天像などを安置する。

金銅釈迦三尊像

法隆寺の本尊で、中尊の釈迦如来坐像と左の薬王菩薩立像、右の薬上菩薩立像からなり、光背を持つ。聖徳太子と妃の膳大郎女の病気治癒を願って止利仏師(鞍作鳥)によって造られ始め、2人が亡くなった623年(推古天皇三十一年)に完成したとされる。大陸の影響が色濃く、口もとにはアルカイック・スマイル(古代ギリシャのある種の彫刻に特徴的な微笑)を浮かべる。

銅造薬師如来坐像

本尊左側の東の間に安置されている高さ約64cmの像。銘によれば聖徳太子と推古天皇が用明天皇の病気治癒の伽藍とともに発願し、607年(推古天皇十五年)に完成したとされるが、実際の制作は7世紀後半とする見解が多い。

木造四天王像

須弥壇の四隅に安置される像で、岩座と邪鬼の上に直立に立ち、怒りの表情は表さない。像高133~134cm。広目天像と多聞天像の背光に刻まれている作者銘にある「山口大口費」は日本書紀に登場する「山口直口費」と同一人物と考えられ、書記には650年(白雉元年)に千仏像を刻んだと記されているので、本像もそれに近い年代に造られたと推定されている。日本最古の四天王像。

五重塔

7世紀末の建立と考えられ、現存する日本最古の木造塔。高さは34.1mあり、逓減率が高いのが特徴。初層の内部には塔本四面具と呼ばれる塑像群が安置されており、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、西面は分舎利(釈迦の遺骨の分配)、南面は弥勒浄土、北面は釈尊の入滅の場面を表現する。

大講堂

金堂・五重塔の奥に位置する正面9間側面4間の建物で、現存するのは990年(正暦元年)の再建。回廊は元々大講堂よりも手前で口の字形に閉じていたが、再建時に現在のように講堂に接続するようになった。内部には藤原時代に造られら本尊の木造薬師如来三尊像や木造四天王立像を安置する。

大宝蔵院

法隆寺に伝わる寺宝を収蔵するための施設で、1998年(平成十年)に完成。百済観音堂、東宝殿、西宝殿からなり、百済観音像・玉虫厨子・夢違観音像・九面観音像・阿弥陀三尊像及び厨子など貴重な寺宝が数多く展示されている。

百済観音像(虚空蔵菩薩像)

和辻哲郎の「古寺巡礼」でも称賛されている有名な像で、百済観音堂に安置されている。
百済から持ち込まれたとされてきたため百済観音と呼ばれてきたが、近年の調査の結果、日本産の木材が使われていることがわかっている。7世紀頃の作とされるが、正確な年代や作者は不明。

夢違観音像

1710年(宝永七年)以降は東院絵殿の本尊となっていた像で、夢違という名前の由来である祈れば悪夢を良夢に替えてくれるという霊験が台座に刻まれている。高さ87cm白鳳期の作。

玉虫厨子

元々は金堂に安置されていた厨子で、透かし彫りの装飾金具の下に玉虫の羽を敷くためこの名がある。高さ227cm。扉、壁面、台座には有名な「捨身飼虎図」「施身聞偈図」や「舎利供養図」「須弥山図」などが描かれている。

西円堂

奈良時代に橘夫人の発願で行基によって建立されたと伝えられるお堂。現存の建物は鎌倉時代の再建で、堂内には日本最大級の乾漆像という奈良時代の薬師如来坐像が安置されている。

夢殿

東院伽藍の中心をなす八角円堂で、内部には太子等身とされる救世観音菩薩立像や上宮王院(東院伽藍)を創建した行信僧都の座像、平安時代に夢殿を修理した道詮律師の坐像などを安置する。正確な創建年代は不明だが東院のできた739年(天平十一年)頃とされ、夢殿とは斑鳩宮で太子が瞑想のために籠ったという伝説的な建物であり、8世紀末頃から当堂に夢殿の呼称が使われ始めた。救世観音像は秘仏であり、白布に包まれて厨子に納められて長らく誰も見た人はいなかったが、明治初めに岡倉天心とフェノロサが調査のために開帳したというエピソードは有名。現在も普段は見れず、春(4月11日~5月18日)と秋(10月22日~11月23日)の年2期間のみ公開される。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「以和為貴」、②「南無佛」、③「篤敬三寶」、④「唯佛是真」、⑤「尺寸王身釈像」、⑥「田村皇子問太子之病」、⑦「阿弥陀如来」、⑧「救世観音」、⑨「釈迦如来」、⑩「峰薬師如来」
入手場所 ①~⑨は聖霊院内の納経所(⑧は夢殿、⑨は上御堂公開時限定)、⑩は西円堂近くの朱印所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 シンプルなデザインのオリジナル御朱印帳があります。
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歴史

法隆寺(斑鳩寺)の創建については諸説あるが、金堂薬師如来像の背光銘によれば、用明天皇が病気平癒を願って創建を開始し、その死後、子の聖徳太子(厩戸皇子)に受け継がれて607年(推古天皇十五年)に完成したとされる。「日本書紀」には法隆寺は670年(天智天皇九年)に焼失したとの記述があり、明治中頃から現在の建物はその後の再建か創建時のものかについての論争が行われたが、1939年(昭和十四年)の発掘調査の結果、焼失後の再建であることが立証された。
また、「日本書紀」によると聖徳太子は601年(推古天皇九年)に現在の東院伽藍辺りに斑鳩宮を造営し、605年(推古天皇十三年)ここに移り住んだといい、聖徳太子の死後、斑鳩宮には子の山背大兄王が住んだが、642年(皇極天皇二年)、蘇我入鹿の兵によって焼き払われ、一族は法隆寺で自害した。739年(天平十一年)、この斑鳩宮跡に行信という僧が太子等身の救世観音像を祀って上宮王院を創建し、これが平安時代に法隆寺に組み込まれて東院伽藍となった。
その後、太子の子孫を称する登美氏の影響下にあったが、845年(承和十二年)、法隆寺の僧善愷が寺の財産を勝手に処分したことをめぐって登美直名を訴える事件(善愷訴訟事件)が起き、独立に向かった。
太子信仰が高まると、聖徳太子ゆかりの寺として崇敬を集め、法相、真言の教学の場としても栄えたが、室町時代末期にはやや衰微する。その後、豊臣秀頼によって大修理が行われ、江戸時代には第五代代将軍徳川綱吉とその生母桂昌院の援助によって諸伽藍が修復されるなど寺観は保たれた。
明治に入ると神仏分離令や廃仏毀釈の影響で危機的な状況に陥り、1878年(明治十一年)には皇室に寺宝を献納して下賜金を得ることで運営費を賄った。
その後徐々に復興が進み、1934年(昭和9年)から大修理が開始された。1949年(昭和二十四年)には修復工事中の金堂で火災が起き、1950年(昭和二十五)に文化財保護法の制定されるきっかけとなった。また、同年には法相宗から独立して、聖徳太子を祀る独自の宗派・聖徳宗を開宗。貴重な文化財の宝庫であり、
国宝・重要文化財に指定されているものだけで190件近くある。1993年(平成五年)には「法隆寺地域の仏教建造物」として日本で最初の世界遺産に登録された。
 
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