興福寺

[spp]

基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


0

種類 寺院(法相宗)
アクセス 近鉄奈良駅から徒歩6分。JR奈良駅下から徒歩15分。駐車場あり(乗用車1000円)。
概要 興福寺は奈良県奈良市登大路町にある法相宗の大本山寺院。
藤原鎌足(藤原鎌足)の妻鏡女王が鎌足の意思を継いで山背国に建てた山階寺が始まりだといい、藤原不比等によって現在地に遷されて興福寺と改称した。
近くの春日大社とともに藤原氏の氏寺として栄え、平安時代には強大な僧兵を擁して恐れられたが、近世になると徐々に衰微し、明治の廃仏毀釈では壊滅的なダメージを受けた。
とはいえ、現在でも貴重な文化財が数多く残されており、北円堂、五重塔、三重塔、東金堂、天燈鬼・龍燈鬼立像、旧山田寺仏頭、阿修羅像など国宝に指定されている物も多い。
1998年(平成十年)には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
見どころ 五重塔東金堂南円堂三重塔北円堂国宝館
拝観時間 9時~17時
拝観料 境内自由。国宝館→大人600円、中高生500円、小人200円。東金堂→大人300円、中高生200円、小人100円
サイト http://kohfukuji.com/
住所 奈良県奈良市登大路町48

[gad]

興福寺の見どころ

五重塔

730年(天平二年)、藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后である光明皇后(光明子)の発願で建てられたのが最初で、以後5度焼失したが、その都度建て直されてきた。現存する建物は1426年(応永三十三年)の再建だが、古式に乗っ取って建てられたため純和様建築である。高さは約50.1mあり、古塔としては京都東寺の五重塔に次いで日本で2番目の高さを誇る。初層の内部には薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されている。明治初めに廃仏毀釈で興福寺が荒廃した際には資金獲得のため売りに出されたという話は有名。

東金堂

726年(神亀三年)、聖武天皇が伯母である元正太上天皇の病気治癒を願って創建。近にある五重塔と同じく5度にわたって焼失し、現存する建物は1415年(応永二十二年)に再建されたもの。正面7間側面4間、寄棟造本瓦葺で、内部には本尊の薬師如来像(室町時代)及び脇侍の日光・月光菩薩(奈良時代)や十二神将像(1207年頃)、四天王像(貞観期)、定慶作の維摩居士像・文殊菩薩像(1196年)が安置されている。本尊と脇侍は重要文化財、それ以外は国宝に指定されている。

南円堂

813年(弘仁四年)、藤原冬嗣が父藤原内麻呂の追善のため創建した八角堂で、現存する建物は1741年(寛保元年)の再建。
本尊の不空羂索観音坐像は1188年(文治四年)から翌年にかけて運慶の父である仏師康慶らによって造られたもので、像高は336cmあり、上半身には鹿革をまとう。堂内には同じく康慶によって造られた法相六祖像や四天王像(康慶が造ったのは別の堂の四天王像だともされる)も安置されており、普段は見ることができないが10月17日の大般若経転読の際に開帳される。

三重塔

1143年(康治二年)、崇徳天皇の中宮皇嘉門院によって建立された塔。1180年(治承四年)、平重衡による南都焼き討ちで焼失したが、その後ほどなくして再建された(正確な年数は不明)。初層の板壁には薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、釈迦如来がそれぞれ千体描かれ、須弥壇にはに弁才天像と十五童子像が安置されている。7月7日に行われる弁才天供の際に開扉。高さ約19m。

北円堂

721年(養老五年)、藤原不比等の一周忌に際して元明太上天皇と元正天皇が長屋王に建てさせて八角堂。その後1049年(永承四年)と1180年(治承四年)に焼け、1210年(承元四年)に再建されたのが現存する建物。堂内には運慶一門による本尊の弥勒如来像と無著・世親菩薩像像(無著・世親は法相宗の教理の元をつくったインドの仏教学者兄弟)や791年(延暦十年)に造られ後に大安寺から移されたという四天王像などを安置する。

国宝館

興福寺に伝わる貴重な文化財は保存・公開するための施設で、1959年(昭和三十四年)に完成。鉄筋コンクリート製だが、食堂のあった場所に建てられており、創建当初の食堂を再現してつくられている。内部には、仏像、絵画、工芸品、古文書、歴史資料などが保管されている。主なものは以下の通り。

旧山田寺仏頭(銅造仏頭)

白鳳時代(645-710年)に造られ、飛鳥の山田寺(現奈良県桜井市)講堂の本尊だった薬師如来像で、1187年(文治三年)に興福寺に移されて東金堂の本尊となっていたが、室町時代に燃え頭部だけが残された。その後、その存在は忘れられていたが1937年(昭和十二年)に東金堂本尊台座の中から発見された。

八部衆立像・阿修羅像

元は西金堂の本尊釈迦如来像の周りに安置されていた像で、仏法を守護するという阿修羅・鳩槃荼・迦楼羅・緊那羅・畢婆迦羅・乾闥婆・五部浄・沙羯羅(摩睺羅)の8神から成る。奈良時代に十大弟子像と共に仏師将軍万福ら一門によって造られたもの。女性的な表情の阿修羅像が特に有名。

十大弟子立像

八部衆立像と同時期に造られたもので、同じく西金堂の本尊釈迦如来像の周りに安置されていた。現在は舎利弗・目犍連・伝須菩提・富楼那・迦旃延・伝羅睺羅の6体が残されている。像高約144~152cm。

天燈鬼・龍燈鬼立像

元は西金堂に安置されていたもので、小鬼が灯籠を担ぎ上げてるというユーモラスな像。灯籠は後の捕作だが、本体は1215年(建保三年)に運慶の三男康弁が造ったもの。共に像高約78cm。

千手観音立像

元々食堂内に安置されていたため、食堂跡に建つ国宝館の本尊とされている。1181年(養和元年)、仏師成朝によって造り始められたが何らかの理由で完成せず、1229年(寛喜元年)頃、受け継いだ他の仏師によって完成された。

金剛力士像

元は西金堂に安置されていた像で、定慶の作ともされるが詳細は不明。胎内で見つかった紙片などから1288年(正応元年)に大仏師善増や絵仏師観実らによって修理された事がわかっている。

金銅燈籠

元は南円堂正面に建てられいた灯籠で。銘文によれば816年(弘仁七年)に正四位下伊予権守藤原公等が亡き父のために造ったものだという。銘文は嵯峨天皇・空海と共に三筆の一人として知られる橘逸勢の筆ともされる。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「南円堂」、②「一言観音」③西国第九番札所の御詠歌 ④一言観音の御詠歌、⑤「北円堂」、⑥「東金堂」、⑦西国薬師四十九霊場四番の御詠歌、「⑧中金堂」⑨「令興福力」、⑩「稚児観音、⑪「大御堂」、⑫「千手観世音」
入手場所 ①~④、⑨は南円堂横の御朱印所、⑤は北円堂の拝観受付(北円堂特別公開時限定)、⑥~⑫は東金堂近くのプレハブ。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 五重塔が描かれたものなど数種類あります。
広告

興福寺の歴史

669年(天智天皇八年)、藤原鎌足(中臣鎌足)の死に際して夫人の鏡女王が山背国山階にあった邸宅内に鎌足の念持仏の釈迦丈六像を祀って山階寺を建てたが興福寺の始まりとされる。山階寺は子の藤原不比等によって藤原京の厩坂に遷され厩坂寺と称したが、710年(和銅三年)の平城京遷都に際して現在地の移動され興福寺と改称した(不比等を実質的な創建者とする説もある)。現在地に移ると、藤原氏の強大な権力を背景として次々と伽藍が建立され、すぐに大寺院へと発展した。
平安時代に入ると特に藤原北家と結びつきを深め、多くの荘園を所有して、実質的に大和国の支配者となった。さらに同じく藤原氏と関係の深い春日大社と一体になって多数の僧兵を擁して度々強訴を行ったので南都北嶺(興福寺と延暦寺の事)と恐れられた。また、摂関家や皇族出身者が入寺する門跡寺院として970年(天禄元年)に定昭が一乗院を、1087年(応徳四年)に隆禅が大乗院を創建して朝廷との結びつきを強めた。
繁栄を極めた興福寺だが平氏政権とは折り合いが悪く、平氏打倒の動きに同調したため平清盛の怒りを買い、1180年(治承四年)、平重衡らの軍によって焼き払われた(南都焼討)。この時ほとんどの伽藍が焼失したものの比較的すぐに復興され、鎌倉幕府から大和守護職を任せられ、大和国を支配し続けた。
しかし、一乗院と大乗院の対立もあり室町時代には徐々に衰え、戦国時代には松永久秀、次いで織田信長の支配に屈することとなった。信長や豊臣秀吉は寺領削減のために検地を行い、1595年(文禄四年)には春日大社と合わせて2万1000余石とさている。
江戸時代に入ると徳川将軍家の保護である程度復興されたが、1717年(享保二年)に大火に見舞われた後は復興する資金がなく、荒廃が進んだ。
明治に入ると神仏分離で春日大社と切り離され、興福寺別当を代々務めてきた一乗院と大乗院の門主還俗して華族となり、多くの僧は神官になったため困窮し、更に上知令で寺地の多くを没収されたため壊滅状態に陥った。この時、三重塔や五重塔が売りにされたという話さえある。
1881年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許され、その後、徐々に復興。1998年(平成十年)には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録された。

 
[gad45]

広告