足利学校跡

[spp]

基本情報

知名度 ★★★
平均評価


0

種類 史跡
アクセス JR両毛線足利駅から徒歩10分。東武伊勢崎線足利市駅から徒歩15分。近くに無料駐車場あり。
概要 足利学校は栃木県足利市にかつてあった教育施設。
創建年代には様々な説がありはっきりとしないが、室町時代からその名を知られるようになり、儒学、易学、兵学、医学などを教える学校として1872年(明治五年)まで存続した。
門や孔子廟は江戸時代の建物だが、方丈、書院、庫裏、庭園などは1990年(平成二年)に復元されたもの。
見どころ 入徳門学校門孔子廟庠主の墓遺蹟図書館菜園場
拝観時間 4-9月→9時~16時30分、10-3月→9時~16時
拝観料 一般420円、高校生210円、中学生以下無料。
サイト http://city.ashikaga.tochigi.jp/
住所 栃木県足利市昌平町2338

[gad]

足利学校の見どころ

入徳門

境内入口に位置する門。
1668年(寛文八年)に建てられた門は1831年(天保二年)に焼失しており、現存するのはその後の再建。「入徳」の額字は紀伊徳川家第11代藩主徳川斉順の筆。

学校門

入徳門の奥に位置する門。
1668年(寛文八年)に建てられたもので、「學校」の額字は明人蒋龍渓の書からとったものという。

孔子廟(大成殿)

杏壇門の奥に位置する孔子を祀るお堂。
同じく1668年(寛文八年)に建てられてもので、堂内には1535年(天文四年)に造られた孔子座像や江戸時代の作である小野篁座像を安置する。

庠主の墓

庠主(しょうしゅ)とは足利学校の校長を指す名称で、上杉憲実が円覚寺から快元を招いて以来禅僧が務めることとなっていた。境内には23代まで続いた庠主の内17人の墓がある。

遺蹟図書館

足利学校に伝わる書籍を管理するための図書館で、裏の収蔵庫には「周易注疏」、「周易注疏」、「礼記正義」(いずれも国宝)など貴重な文化財が納められている。
蔵書の豊富さは古くから有名で、江戸時代にはこれを目当てに谷文晁、渡辺崋山、吉田松陰らが訪れている。

菜園場

足利学校ではかつて自給自足制がとられており、校内には食糧生産のための畑があった。
現存する菜園場は復元されたもので、孔子とその弟子を祀る釈奠(せきてん)の儀式に使う大根や里芋などの野菜や牡丹や芍薬などの花が栽培されている。

広告

歴史

創建年代については諸説あり、古代律令制の中で各国に設立された国学が発展してできたものとする説や平安時代前期に公卿で文人としても知られる小野篁が創建した説、鎌倉初期に幕府の御家人で足利氏第2代当主足利義兼(鑁阿寺の創建者)が一族の子弟教育のために建てたとする説などがある。
鎌倉時代後期以降衰退したとされるが、永享年間(1429-1441年)に足利荘の代官だった関東管領上杉憲実が鎌倉の円覚寺から快元を招いて復興し、儒学を中心とした学校として広く知られるようになった(憲実を創建者とする説もある)。
上杉氏没落後は足利長尾の庇護を受け、1467年(応仁元年)に勧農城城主長尾景人によって現在の伊勢町付近から現在地へ遷され、その後、小田原の後北条氏の支援も受けて繁栄期を迎えた。
戦国期には儒学のみならず易学、兵学、医学なども教えられるようになり、出身者は軍配者などとして戦国大名に重宝されるなど全国的にその名を知られるようになり、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスも足利学校のことを書きとどめている。
1590年(天正十八年)に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると庇護者を失い、一時所蔵の書籍も京都へ移されたが、第9代庠主三要が徳川家康の信任を得て存続が図られた。
江戸時代には100石の朱印地を与えられ、寺社奉行の管轄下の置かれるなど幕府の影響力が強くなり、後期になると衰退して、維新後一時藩校になるも1872年(明治五年)に廃止された。

 
[gad45]

広告