泉岳寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(曹洞宗)
アクセス 都営地下鉄浅草線泉岳寺駅徒歩1分。都バス品97泉岳寺前下車すぐ。専用駐車場なし。
概要 東京都港区高輪にある曹洞宗の寺院。
1612年(慶長十七年)、徳川家康が今川義元の菩提を弔うため義元の孫である門庵宗関を招いて創建した歴史ある寺院で、愛宕の青松寺・橋場の総泉寺と共に曹洞宗江戸三箇寺に数えられた。
また、忠臣蔵で有名な赤穂浪士47名が葬られた場所としても知られ、境内には赤穂義士記念館も建つ。
主な行事には、赤穂浪士が吉良上野介邸に討ちいった日である12月14日に開催される赤穂義士祭がある。
見どころ 中門大石内蔵助像山門本堂鐘楼堂赤穂浪士の墓赤穂義士記念館
拝観時間 4月-9月→7時~18時、10月-3月→7時~17時(赤穂義士記念館は4月-9月→9時~16時30分、10月-3月→9時~16時)
拝観料 境内自由(赤穂義士記念館は大人500円、中高生400円、小人250円)
サイト http://www.sengakuji.or.jp/
住所 東京都港区高輪2-11-1

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泉岳寺の見どころ

中門

現存する総檜造の門は1836年(天保七年)の再建で、1932年(昭和七年)に大規模な修理が行われている。
正面には泉岳寺の山号である「萬松山」の扁額が掲げられている。

大石内蔵助像

中門と山門の間に立つ、赤穂浪士のリーダー大石内蔵助をモデルとした銅像。
明治から大正にかけて活躍した浪曲師の桃中軒雲右衛門(1873年~1916年)の発願で鋳造されたもので、幾度か所有者が変わった後、1921年(大正十年)に泉岳寺に寄贈された。

山門

中門の奥に位置する「泉岳寺」の額を掲げた重層門。
現存するのは1832年(天保三年)の再建で、初層の天井には作者関義則が亡くなった際に両親から寄贈されたという銅彫の大蟠龍が嵌め込まれ、楼上には十六羅漢像を安置する。

本堂

前の本堂は1945年(昭和二十年)に空襲で焼け、現存する禅宗様の建物は1953年(昭和二十八年)の再建。
堂内には、本尊の釈迦如来座像、大石内蔵助の守り本尊という秘仏の摩利支天像、曹洞宗の宗祖である道元禅師像・瑩山禅師像を安置する。

梵鐘

現在鐘楼堂に吊るされている梵鐘は1913年(大正二年)に鋳造されたもので、朝夕に鳴らされる。
江戸から明治まで使われていた前代の梵鐘は現在ウィーン国立民族博物館の所有となっている。

赤穂浪士の墓

赤穂浪士の墓赤穂浪士の墓(Photo by:wikimedia

元禄十五年(1703年)12月14日、吉良上野介邸に押し入り仇討ちを果たした大石内蔵助(良雄)を筆頭とした赤穂浪士47名は事件後、細川・松平・毛利・水野の各大名屋敷に預けられ、元禄十六年(1703年)2月4日切腹し、主君浅野内匠頭(長矩)の眠る泉岳寺に葬られた。
だだし寺坂吉右衛門は関係者に討ち入りの成功を報告した後、江戸の戻って自首したが赦され麻布の曹渓寺で83歳まで生き同寺に埋葬された(1868年に泉岳寺にも墓が建てられている)。
また、間新六は他の浪士と同時に墓は造られたが、遺体は遺族が引き取り築地本願寺に埋葬されている。
さらに1767年(明和四年)には討ち入りへの参加を希望したが周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した萱野三平の供養塔も建てられたため、現在墓碑は48基ある。
この討ち入りの話は竹田出雲らの浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」をはじめとして幾度も歌舞伎・劇・映画などの題材となり、現在も浪士を偲んだ参拝客が絶えない。
墓の近くには討ち取った吉良上野介(義央)の首を清めたという首洗い井戸もある。

赤穂義士記念館

赤穂浪士(義士)ゆかりの品々や関連資料を展示する施設で、隣の義士木像館には、江戸時代から明治初めまでに造られた義士の木像を納める。入場料(両者共通)、大人500円、中高生400円、小人250円。

御朱印

種類 「本尊釈迦如来」の1種類。
入手場所 本堂隣りの寺務所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 ないようです。
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歴史

1612年(慶長十七年)、徳川家康が今川義元の菩提を弔うため義元の孫(三男とも)にあたる門庵宗関を下野国大中寺より招き、桜田門外に創建。
しかし1641(寛永十八年)、大火に巻き込まれ焼失したため三代将軍徳川家光は毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じて現在地に再建させた。
浅野家との縁はこの時始まったものであり、1703年(元禄十六年)には赤穂浪士が葬られている。
江戸時代には曹洞宗の江戸三ヶ寺のひとつに数えられ、広大な伽藍を誇り多数の学僧を抱えたが明治に入ると廃仏毀釈の影響などで衰微した。その後、復興が進められ現在にいたる。

 
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