知恩院

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(浄土宗鎮西派)
アクセス 河原町駅から徒歩15分。祇園四条駅から徒歩10分。市バス知恩院前下車5分。知恩院三門前下車すぐ。→詳細
概要 知恩院は京都市東山区にある浄土宗の寺で、正式には華頂山大谷寺知恩教院という。
当地は浄土宗の宗祖の法然が居を構えて専修念仏の布教に努めた場所であり、1212年(建暦二年)に法然が没した後、弟子達がここに霊廟を建たのが当寺の始まり。
当初はそれほど大規模な寺ではなかったが、近世になると織田信長や豊臣秀吉、徳川家の支援のもとで繁栄を極めた。
建造物では三門、御影堂(本堂)が、所蔵の文化財では法然上人絵伝、阿弥陀二十五菩薩来迎図、上宮聖徳法王帝説、菩薩処胎経、大楼炭経が国宝に指定されている。浄土宗鎮西派の総本山。
見どころ 三門御影堂大方丈・小方丈鐘楼勢至堂集会堂
拝観時間 9時~16時30分
拝観料 境内無料。方丈庭園400円、友禅苑300円、両者共通500円。
サイト http://www.chion-in.or.jp
住所 京都市東山区林下町400

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知恩院の見どころ

三門

神宮道に面して立つ、五間三戸、入母屋造本瓦葺の重層門。
1621年(元和七年)に江戸幕府第二代将軍徳川秀忠によって建てられたものであり、高さは24メートル、横幅50メートルと巨大で、現存する日本の木造門の中で最大クラスの大きさを誇る。
楼上内部には宝冠釈迦牟尼仏像や十六羅漢像が安置され、天井や柱には麒麟、天女、迦陵頻伽、飛龍などが描かれている。内部は通常非公開だが、特別公開されることもある。また、掲げられている「華頂山」の扁額は霊元天皇(1654-1732年)の筆とされる。国宝に指定。

御影堂(本堂)

三門を通り男坂と呼ばれる石段をあがった所にある、正面十一間側面九間入母屋造本瓦葺の巨大な建物。
1633年(寛永十年)に火災で焼失した後、1639年(寛永十六年)に江戸幕府第三代将軍徳川家光によって再建されたものが現存の建物。
内部には本尊の法然上人像や、阿弥陀如来立像、善導大師立像、五上人像、徳川家康、秀忠、家康の母伝通院の坐像などを安置する。
正面の軒裏には何故か傘が置かれており、「左甚五郎の忘れ傘」として知恩院七不思議の一つとなっている(職人の左甚五郎が魔よけに置いたものとも、白狐が恩返しに置いていったものとも)。
現在修復工事中にため2019年(平成三十一年)まで見ることはできない。国宝に指定。

大方丈・小方丈

両方とも1641年(寛永十八年)の建立で、御影堂の右手後方に大方丈が、その更に奥に小方丈がある。
大方丈は54畳敷きの鶴の間を中心にいくつもの部屋を持ち、狩野尚信、信政などの狩野派による襖絵が一面に飾られており、鶴の間奥の仏間には快慶作とされる本尊阿弥陀如来像が安置されている。
小方丈は将軍が上洛する際の宿舎として建てられたともいい、6室からなり、大方丈同様に狩野派による襖絵が飾られているが、こちらはより落ち着いた雰囲気となっている。両方とも内部は非公開。
大方丈と小方丈の間には方丈庭園と呼ばれる池泉回遊式の庭園があり、有料で見学することができる(大人400円、小人200円、9時~16時30分)。

鐘楼

御影堂の右奥に位置する建物で、高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トンという日本最大級の大きさの梵鐘を吊るす。鐘には寛永十三年(1636年)の銘があり、建物は1678年(延宝六年)の再建。
方広寺や奈良の東大寺の梵鐘と共に日本三大梵鐘の一つに数えられており、大晦日から新年にかけて撞かれる除夜の鐘はしばしばテレビやラジオでも取り上げらる。

勢至堂

法然上人が教えを説いた大谷の禅房の跡地に建つ建物で、御影堂が建立されるまでは本堂として使われていた。
現存の建物は、1530年(享禄三年)に青蓮院の護摩堂を移したものだといい、知恩院に現存する建物の中で一番古い。正面には後奈良天皇(1497-1557年)筆の額を掲げ、内部には勢至菩薩像を安置する。
勢至堂の傍には紫雲水と呼ばれる小さな池があり、法然入滅の際に紫雲(仏が乗って来迎するとされる雲)が現れ、上人を迎え入れたとの言い伝えが残されている。
また、紫雲水の背後には御廟があり、法然上人の遺骨が納められている。御廟は1613年(慶長一八年)、前の拝殿は1710年(宝永七年)の建立。内部は非公開。

集会堂(法然上人御堂)

御影堂の北側に位置する建物で、御影堂とは鴬張りの廊下で繋がっている。
鴬(うぐいす)張りと呼ばれるのは、歩くと板が軋みウグイスの鳴き声のような音が出るからで、侵入者を察知するための構造とも言われている。
1635年(寛永一二年)の建立で、450畳敷のあり、その広さから俗に千畳敷とも呼ばれる。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「法然上人」の御朱印、②「勢至菩薩」の御朱印、③「宝冠釈迦如来」の御朱印、④御詠歌の御朱印。
入手場所 男坂を上がったところにある御朱印受付所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 三門が描かれたオリジナル御朱印帳があります。
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知恩院の歴史

浄土宗の開祖法然(1133-1212年)は初め比叡山で天台宗の教えを学んだが、1175年(承安五年)、専修念仏の教義を確立し、比叡山を降りて東山吉水に移り布教を始めた。
しかししだいに他宗派の激しい反発に遭うようになり、1207年(承元元年)には活動は停止させられ讃岐に流され、4年後、吉水の草庵に戻ったが、1212年(建暦二年)に亡くなった。
法然の死後、弟子達によって廟堂が建てられ、1227年(安貞元年)に延暦寺の衆徒によって破壊されててしまうが1234年(文暦元年)、源智によって再建され、この頃四条天皇より華頂山大谷寺知恩教院の寺名を賜ったとされる。
1431年(永享三年)、1468年(応仁二年)、1517年(永正一四年)と焼失したが、勧請により復興され、徐々に末寺を増やしていく大寺へ発展した。
1523年(大永三年)には知恩寺との間に、浄土宗の本寺を巡る争いが起きたが、正親町天皇の裁定で本寺と認められその地位を確立した。
江小戸時代になると、1603年(慶長八年)に徳川家康によって七百石余りの寺領を寄進されるなど、徳川将軍家と結びついて更に大寺院に発展を遂げ、1607年(慶長十二年)に後陽成天皇の皇子八宮を門主に向かえ以後、代々皇族から門主を迎える門跡寺院となった。
1633年(寛永十年)には火災で多くの伽藍が焼失したが、将軍徳川家光の支援で復興されている。
明治になると庇護者を失い、廃仏毀釈の風潮の中で苦境に立たされたが、信徒からの支援で持ちこたえ現在にいたる。

 
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