東大寺

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(華厳宗)
アクセス JR奈良駅から市内循環バスで大仏殿春日大社前下車5分。近鉄奈良駅から徒歩20分。駐車場あり。→詳細
概要 東大寺は奈良県奈良市にある華厳宗の大本山寺院で、奈良の大仏として知られる盧舎那仏を本尊とする。
天平年間(729-749年)に聖武天皇の勅願で創建が開始され、752年(天平勝宝四年)に大仏の開眼供養が行われた。開山は良弁で、建設費用を集めるための勧進には行基が活躍した。
境内は広く、南大門、大仏殿(金堂)、三月堂(法華堂)、金剛力士像、戒壇堂、盧遮那仏座像(大仏)、僧形八幡神像、不空羂索観音像、転害門など国宝に指定されている貴重な文化財も数多い。
1998年(平成十年)には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
見どころ 南大門大仏殿大仏鐘楼俊乗堂二月堂三月堂開山堂転害門戒壇堂勧進所手向山八幡宮
拝観時間 11-2月→8時~16時30分、3月→8時~17時、4月-9月→7時30分~17時30分、10月→7時30分~17時。
拝観料 境内自由(大仏殿・三月堂・戒壇堂は大人500円、小学生300円)
サイト http://www.todaiji.or.jp/
住所 奈良県奈良市雑司町406-1

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東大寺の見どころ

南大門

境内入口に位置する高さ約25m、5間3戸入母屋造本瓦葺の巨大な門で、「大華厳寺」の扁額を掲げる。創建当初に建てられた門は962年(応和四年)に大風で倒れ、再建された門も1180年(治承四年)の平重平による南都焼討によって大仏殿などと共に焼失してしまう。現存の南大門は、その後復興を任された重源上人によって建てられたもので、1199年(正治元年)に完成。重源が宋から取り入れた大仏様(天竺様)と呼ばれる建築様式の代表的遺構として名高い。門内左右では、1203年(建仁二年)に運慶、快慶、湛慶らによって造られた金剛力士像(国宝)が睨みをきかせる。西の口を開いた阿形像は像高約836cm、東の口を閉じた吽形像は像高約842cmあり、筋骨隆々の体躯と憤怒の表情はリアルで迫力がある。また、あまり目立たないが力士像の反対側には、1196年(建久七年)頃に宋からやって来た石工が中国の石材を使って造った高さ約180cmと約142cmの一対の変わった風貌の獅子像(重文)が置かれている。

大仏殿(金堂)

中門の奥に位置する正面57m、側面50.5m、高さ47.5mという巨大な建物が大仏殿で、内部には奈良の大仏さんとして知られる銅造盧舎那仏座像が安置されている。創建当初の建物は南大門と同じく1180年(治承四年)の南都焼討で燃え、再建された建物も1567年(永禄十年)の松永久秀と筒井順慶らとの戦いによって焼失した。その後長らく再建されず大仏は露座となっていたが、1709年(宝永六年)に現存の建物が建てられた。だだ、木材の不足もあって創建時の大きさで再現することはできず、正面の幅は約30m狭くなっている。しかし、それでも世界最大級の木造建築だといわれている。大仏殿の前には創建時の姿を留める高さ461cmの金堂八角灯籠(国宝)が置かれている。

大仏(盧舎那仏)

大仏殿に安置される東大寺の本尊で、奈良の大仏の通称で知られるが正式には盧舎那仏坐像という。盧舎那仏(毘盧遮那仏)は光り輝くものを意味するサンスクリット語Vairocanaの音写で、「華厳経」などで世界をあまねく照らし真理に導く仏として説かれ、真言宗では大日如来と同一視される。鎮護国家の思想が高まる中、743年(天平十五年)に聖武天皇によって盧舎那仏造顕の詔が出され、紫香楽で造立が始まったが災害が続いたため平城京に移されて、752年(天平勝宝四年)に開眼供養が行われた。現存の大仏は胴体の大部分が鎌倉時代、頭部が江戸時代に鋳造されたものだが、一部創建当初の部分も残されている。高さは約15mと鎌倉の大仏と比べてもだいぶ大きい。

鐘楼

建物は鎌倉時代初期の建築で、日本臨済宗の開祖であり、一時東大寺勧進職を務めた明菴栄西(1141-1215年)によって再建されたものだといい、南都八景のひとつとして知られる。内部には752年(天平勝宝四年)に鋳造された高さ3.9m、口径2.7m、重さ26.3tの梵鐘が吊るされている。この鐘には「奈良太郎」という愛称があり、大晦日の除夜の鐘は一般の人でも撞くことができる。

俊乗堂

1180年(治承四年)の平重衡による焼き討ちの翌年に東大寺大勧進職となり、復興に尽力した俊乗房重源を祀る。建物は1704年(宝永元年)の再建で、内部には鎌倉時代に造られた木造俊乗上人像(国宝)を安置する。

二月堂

旧暦の2月に「修二会(お水取り)」という行事が行われることから二月堂と呼ばれる。創建当初の建物は1667年(寛文七年)に失火で焼失し、現存するのは1669年(寛文九年)に再建されたもの。内部には大観音、小観音と呼ばれる2体の十一面観音像を安置するが、絶対秘仏で見ることはできない。

三月堂(法華堂)

二月堂の隣に位置する建物で、正堂部分は東大寺の前身である金鐘寺の遺構ともされ天平年間(729年~749年)の建立であり、付属する礼堂は鎌倉時代初期の建築。内部には本尊の不空羂索観音立像(国宝)や髪を結んでいる紐が蜂になって飛び去り平将門を苦しめたという伝説を持つ塑造執金剛神立像(国宝)、乾漆四天王立像(国宝)、乾漆梵天・帝釈天立像(国宝)など貴重な仏像が安置されている。日光・月光菩薩立像(国宝)、吉祥天・弁才天立像(重文)は東大寺ミュージアムに移動。

開山堂(良弁堂)

東大寺の開山である良弁上人を祀るための御堂で鎌倉時代の建立。堂内の厨子(国宝)には、平安時代に造られた木造良弁僧正坐像が安置されており、普段は入れないが12月16日の良弁忌の際に拝観することができる。また開山堂の前には,白毫寺の「五色椿」、伝香寺の「散り椿」と共に奈良三椿のひとつとして知られる「糊こぼし」が植えられており、3月下旬には大輪の花を咲かせる。

転害門

正倉院の西側に位置する3間1戸の八脚門で、修復はされているものの創建当初から残る貴重な建造物。大仏供養のため東大寺に参詣した源頼朝をこの門に隠れていた平(藤原)景清が暗殺しようとしたという伝説を持ち、景清門とも呼ばれる。

戒壇堂

聖武天皇らに戒を授けた鑑真が正式な授戒の場として755年(天平勝宝七年)に創建したのが始まりで、幾度かの焼失を経て現在の建物は江戸時代の再建。内部には塑造四天王立像(国宝)が安置されている。

勧進所

大仏池手前の一区画で、大仏が露座となっていたことを嘆き、大仏殿建立のために全国で勧進(寄付集め)を行った公慶上人が1686年(貞享三年)に勧進の拠点として創建。八幡堂には手向山八幡宮から移された快慶作の僧形八幡神像(国宝)が安置され、10月5日のみ開帳される。他にも五劫思惟阿弥陀像(重文)を安置する阿弥陀堂や公慶上人座像を祀る公慶堂がある。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「華厳」、②「大仏殿」、③「聖武天皇」、④「唯心」、⑤「観音力」、⑥「南無観」、⑦「観自在」、⑧「不空羂索観音」、⑨「執金剛神」(12月16日限定)、⑩「十一面観音」、⑪「普賢菩薩」、⑫「四天王」、⑬「重源上人」、⑭「阿弥陀如来」、⑮「愛染明王」、⑯「地蔵菩薩」、⑰「行基菩薩」、⑱「大梵鐘」、⑲「五大力尊」、⑳「弘法大師」、㉑「圓光大師」
入手場所 ①~④は大仏殿内入り口付近の授与所、⑤~⑦は二月堂内の納経所、⑧、⑨は三月堂(法華堂)拝観受付、⑩、⑪は四月堂(三昧堂)内、⑫は戒壇堂拝観受付。⑬~⑰は念仏堂横の御朱印所、⑱は鐘楼内の朱印所、⑲は不動堂内、⑳は真言院、㉑は指図堂。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 数種類あり。
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東大寺の歴史

創建と大仏の建立

聖武天皇は光明皇后(光明子)との間に生まれた基王が728年(神亀五年)にわずか1歳で夭折すると、菩提を弔うために金鐘寺(金鍾寺、金鍾山寺とも)を創建。741年(天平十三年)に国分寺建立の詔が出されると、この寺は近くの福寿寺を合併して金光明寺と称する大和国の国分寺に発展。平城京の東側にあったため、やがて東の大寺ということで東大寺とも呼ばれるようになった。
一方、聖武天皇は740年(天平十二年)に河内国の智識寺を訪れた際、宗徒の力によってつくられた盧舎那仏を見て感銘を覚え、「法華教」の教理を研究した後の743年(天平十五年)、大仏造立の詔を発した。
はじめ近江国紫香楽宮近くの甲賀寺で準備が進められたが、都が平城京に戻ったのに伴い金光明寺で造立されることとなった。勧進には行基が活躍して資金を集め、大仏は747年(天平十九年)から749年(天平勝宝元年)にかけて金光明寺造仏所(後に造東大寺司)で鋳造された。752年(天平勝宝四年)には、印度僧の菩提僊那を導師として「大仏開眼供養会」が盛大に営まれた。
大仏と大仏殿の完成後も東大寺別当に任じられた良弁のもとで諸堂の建設が続けられ、754年(天平勝宝六年)には来日した鑑真によって戒壇院が創建された。

平氏軍による破壊と復興

華厳・三論・倶舎・成実・法相・律の六宗兼学(後には真言・天台も加えて八宗兼学)の学問寺として栄えたが、巨大な伽藍の維持には費用がかかり、平安時代になると徐々に荒廃が目立つようになっていった。さらに1180年(治承四年)には平氏政権に反抗的だった寺社勢力を屈服させることを目指した平重衡の軍に焼き討ちされ、大打撃を受けた。
多くの伽藍が焼失して存続も危ぶまれたが、造東大寺勧進に任ぜられた俊乗房重源が復興に尽力し、多くの民衆や九条兼実、後白河法皇などの援助を受けて金属を集め、南宋からきた陳和卿によって失われていた大仏の頭部が鋳造された。1185年(文治元年)、大仏の開眼供養会が行われ、さらに鎌倉幕府などの支援も受けて復興を続け、1195年(建久六年)には源頼朝や北条政子も参加する中、大仏殿落慶供養が営まれた。

室町時代以降

その後は勧進上人に任ぜられた栄西や退耕行勇によっても復興されたが、1567年(永禄十年)、松永久秀と、三好三人衆・筒井順慶の戦いによって戒壇院、大仏殿などが焼失。
この後の再建はなかなか進まず、江戸時代の公慶を待たなければならなかった。公慶は行基や重源に倣って勧進で資金を集め大仏を修復し、1692年(元禄五年)に大仏の開眼供養が行われた。さらに大仏殿も再建され1709年(宝永六年)に落慶供養が営まれたが、木材の不足や経済的理由から元通りの大きさで建てることはできなかった。
明治に入ると廃仏毀釈の風潮や寺領の減少で窮地に立たされたが、なんとか耐え明治末には大仏殿の修理が行われた。昭和期にも大規模な修理が行われ、1998年(平成十年)には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。

 
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