伏見稲荷大社

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価




4-5

種類 神社
アクセス JR稲荷駅下車すぐ。京阪本線伏見稲荷駅下車、徒歩約5分。無料駐車場あり(180台分)。
概要 伏見稲荷大社は京都市伏見区にある神社で、全国に約三万社あるといわれる稲荷神社の総本宮。
711年(和銅四年)の創建とされる京都市内でも最も古い神社の一つであり、宇迦之御魂大神(下社、中央座)、大宮能売大神(上社、南座)、佐田彦大神(中社、北座)、四大神(四大神社、最南座)、田中大神(田中社、最北座)を祭神とする。
主な行事に大山祭(1月5日)、奉射祭(1月12日)、初午大祭(2月の初午の日)、稲荷祭(4月20日に最も近い日曜日~5月3日)、田植祭(6月10日)、本宮祭(7月土用入後初の日曜又は祝日)、火焚祭(11月8日)、御煤払祭(12月初申日)がある。
見どころ 楼門本殿御茶屋千本鳥居奥社奉拝所おもかる石稲荷山熊鷹社荒神峯御幸拝所一ノ峰東丸神社
拝観時間 自由(授与所は7時~18時、祈祷は8時30分~16時30分)
拝観料 境内自由
サイト http://inari.jp/
住所 京都市伏見区深草藪之内町68

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伏見稲荷大社の見どころ

楼門

境内入口にに位置する入母屋造りの重層門。、1589年(天正十七年)に母大政所殿の病悩平癒を願って豊臣秀吉が寄進したもので、重要文化財に指定されている。

本殿

伏見稲荷大社は最初下社・中社・上社の三社からなり、後に田中社・四大神が加わり五社となった。それらが応仁の乱で荒廃した後、それぞれに祀られていた宇迦之御魂大神、大宮能売大神、佐田彦大神、四大神、田中大神の稲荷五社大明神をまとめて祀ったのが現在の本殿。現存の建物は1499年(明応八年)の建設で、稲荷造りとも称される檜皮葺五間社流造。軒下には唐獅子などの桃山期風の豪華な彫刻が施されている。正面には元禄期(1688年-1704年)に付け加えられた向拝があったが、1961年(昭和三十六年)に本殿前に内拝殿が建造さた時に移設された。

御茶屋

本殿奥に位置する建物で、1641年(寛永十八年)に後水尾院に仕えていた羽倉延次が院から下賜され、仙洞御所から移築したもの。書院造と数寄屋造、双方の特徴を持つとされる。通常は非公開。

千本鳥居

奥社奉拝所へと続く約70mの参道には幾本もの鳥居が建ち並び千本鳥居とよばれる。千本鳥居の原型は江戸時代頃からあり、その多くは信者の奉納によって建てられたものだという。
なお、伏見稲荷大社の敷地全体では1万本近い鳥居があるとも言われている。

奥社奉拝所

千本鳥居を抜けたところにある社殿で、背後に聳える稲荷山を拝むための礼拝所。奥の院、命婦社とも呼ばれる。

おもかる石

奥社奉拝所の右手にある一対の石灯籠のこと。この灯籠の前で願い事をしてから、灯籠の空輪(てっぺんに乗っている丸い石)を持ち上げ、それが自分の想像していた重さよりも軽ければ願いが叶い、重ければ叶わないというもの。人気が高く、行列ができることもある。

稲荷山

東山三十六峰最南端に位置する海抜233mの山で、古くから神の降臨地として信仰の対象となっていたという。山頂までの間には鳥居や塚、神蹟が点在し、稲荷山に登りこれらを巡ることをお山巡りという。授与所などは閉まるが、敷地は24時間入ることができ、参道には街灯があるので夜に巡ることも可能。

熊鷹社

稲荷山山中にある摂社の一つで、熊鷹大神を祀る。横には新池(谺(こだま)ケ池))という池があり、行方不明になった人を探すときに、この池に向かって手を叩き、こだまが返って来た方向を探すと手掛かりが掴めるとの言い伝えがある。

荒神峯(田中社神蹟)

田中社のあった場所で、権太夫大神を祀る社が建てられている。堂の後方へ回れば京都の町並みを一望することができる。

御幸奉拝所

稲荷山中にある礼拝所で、できたのは1963年(昭和三十八年)と新しいが、この尾根は平安時代から御幸辺と呼ばれ、山参詣の重要な経路となっていたという。伏見稲荷への信仰が厚かった日本画家の横山大観(1868~1958)の筆塚があり、周囲には黒竹が植えられている。

一ノ峰(上之社神蹟)

稲荷山の頂上に位置する峰で、末広大神を祀る社がある。伏見稲荷の入り口からここまでたどり着くには1時間以上の時間が必要となる。

東丸神社

荷田春満の旧宅の一角にある神社で、荷田春満を祀る。荷田春満(1669年~1736年)は国学の祖として賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と共に国学四大人の一人に数えられる学者であり、伏見稲荷神社(現伏見稲荷大社)の社家の出身。
神社は伏見稲荷大社の敷地内にあるが末社ではなく独立した神社。1890年(明治二十三年)創建。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「伏見稲荷大社」の御朱印、②「伏見稲荷大社 奥社奉拝所」の御朱印、③「稲荷山」の御朱印。
入手場所 ①は本殿横の授与所、②は奥社奉拝所、③は稲荷山山中にある御膳谷奉拝所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 ないようです。
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歴史

和銅四年(711年)二月七日初午の日に秦伊呂具という人物が、稲荷山三ヶ峰に稲荷神を祀ったのが始まりとされ、以後秦氏一族が禰宜・祝となり祭祀を務めた(秦氏は秦の始皇帝の末裔とされる弓月君を祖とする渡来系有力氏族の)。
827年(天長四年)には淳和天皇により、従五位下の神階(朝廷が神に授けた位階)に列せられ、940年(天慶三年)には従一位、942年(天慶五年)には最高位である正一位に列せられた。また平安中期頃にできた高い社格の神社を列した二十二社の制でも、その内の上七社に選ばれている。
朝廷からの信仰も篤く、1072年(延久四年)に後三条天皇の行幸があって以降歴代天皇の行幸が慣例となった。
平安時代末期以降には、山城国の豊田荘をはじめ、加賀、越前、美濃などに大規模な荘園を持ち経済的基盤とした。
しかし1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱では、稲荷山が細川方の軍勢の陣地となり、そこに山名方の軍勢が攻め込んで来たためほとんどの建物は焼き尽くされ荒廃することとなった。
この時稲荷山にあった上社、中社、下社、田中社、四大神社も廃れ、1499年(明応八年)にはこれら五社をまとめた形で本殿が建てられている。
827年(天長四年)に空海が東寺(教王護国寺)の建築資材を稲荷山で採ったことが縁で古くから東寺との関係が深く、荒廃した15世紀後半には神宮寺として愛染寺が建てられている。
1589年(天正十七年)には、豊臣秀吉により境内の地子を免除されて社領として106石を贈られ、、江戸時代には徳川家から社領を安堵されるなど復興が進んだ。
1868年(慶応四年)の鳥羽・伏見の戦では戦場となりかけるが、幕府軍が撤退したため被害を受けることはなかった。
明治になると廃仏毀釈の影響で愛染寺は廃止され、本殿内の仏像類も失われ、更に社領約41万坪の内30万坪が公有地に編入され経済的基盤を失った(その後の払い下げによってある程度回復された)。
1871年(明治四年)には官幣大社として列せられたが、近代社格制度が廃止された戦後には宗教法人伏見稲荷大社となり、神社本庁には属していない。
稲荷山山中では、稲荷山経塚と呼ばれる鎌倉時代初期のものと思われる経塚が1911年(明治四十四年)に見つかっており、中から出てきた合子、銀塊、延金、短刀、、皿、鏡、玉類、古銭などは東京国立博物館に所蔵されている。

 
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