相国寺

[spp]

基本情報

知名度 ★★★
平均評価


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種類 寺院(臨済宗相国寺派)
アクセス 地下鉄今出川駅徒歩約5分。市バス同志社前徒歩5分。駐車場もあるが台数僅か。
概要 京都市上京区にある臨済宗相国寺派の本山寺院で、正式には万年山相国承天禅寺という。
室町幕府第三大将軍足利義満によって1382年(永徳二年)に建築が開始され、10年後の92年(明徳三年)に完成した。勧請開山は夢窓疎石で二世住持は春屋妙葩。
五山の制では京都五山の第二位に列せられ、五山文学で活躍する学僧を多数排出した。
全盛期には寺地は今よりはるかに広く多数の塔頭を抱えた。金閣寺銀閣寺は当寺の境外塔頭である。
見どころ 法堂開山堂宗旦稲荷社方丈相国寺承天閣美術館大光明寺
拝観時間 10時~16時(堂内は特別拝観期間中のみ見学可)
拝観料 境内自由。法堂・方丈・開山堂などは800円、相国寺承天閣美術館800円。
サイト http://www.shokoku-ji.jp/s_about.html
住所 京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701

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相国寺の見どころ

法堂(無畏堂)

現存するのは1605年(慶長十年)に豊臣秀頼によって再建された建物で、現存する日本の法堂建築の中で最も古い。正面約29m、側面23mの入母屋造本瓦葺。無畏堂とも呼ばれる。
内部は瓦敷で、本尊の釈迦如来像及び脇侍の阿難・迦葉尊者像や夢窓疎石像、足利義満像を安置する。
天井には狩野光信(1565-1608年)によって蟠龍図が描かれており、この絵に向かって手を叩くと反響し、それが龍の鳴き声のようなので「鳴き龍」とも呼ばれる。

開山堂

創建時の開山堂は1467年(応仁元年)に応仁の乱で焼け、1666年(寛文六年)に後水尾天皇によって再建された建物も1788年(天明八年)に天明の大火によって焼失して、現存する建物は1807年(文化四年)に桃園天皇の皇后恭礼門院の黒御殿を移築したもの。
内部には開山の夢窓疎石(夢窓国師)像や無学祖元(仏光国師)像、春屋妙葩(普明国師)像を安置する。
襖や杉戸に描かれている絵は円山応拳(1733-1795年)によるものと伝えられる。
開山堂前には白砂が敷き詰められた枯山水式の庭園がある。

宗旦稲荷社

相国寺境内にある稲荷神社。
江戸時代のはじめ頃寺に住みつき、修行僧(雲水)に化けて座禅の修行に参加したり、茶人の千宗旦(1578-1658年)に化けて茶会に出たという宗旦狐を祀っている。

方丈

現存する単層入母屋造本瓦葺の建物は1807年(文化四年)の再建。
内部には方丈室中、竹の間、梅の間、御所移しの間、琴棋書画の間などがあり、それぞれに意匠を凝らした襖絵が描かれている。また後方には枯山水式の裏方丈庭園がある。

相国寺承天閣美術館

相国寺や金閣寺(鹿苑寺)銀閣寺(慈照寺)をはじめとする塔頭に伝わる品々を収蔵する美術館。
主な所蔵品には、無学祖元墨蹟(国宝)、長谷川等伯筆竹林猿猴図屏風(重文)、伊藤若沖筆金閣寺大書院障壁画(重文)、吉山明兆筆春屋妙葩頂相(重文)などがある。
料金は展示内容によって異なるが一般で800円前後。10時~17時(入場16時30分)。

大光明寺

相国寺の塔頭の一つ。
1339年(暦応二年)、後伏見天皇女御の広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うために創建した伏見宮家の菩提寺で、当初は伏見離宮の傍らにあったが1614年(慶長十九年)、徳川家康によって相国寺の塔頭として再興され、現在地へ移された。
境内には足利義尚の墓がある、6時~17時、境内自由。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「無畏堂」、②「釈迦如来」、③「薬師如来」、④「毘沙門天」、⑤「南無釈迦牟尼佛」、⑥「桂宮御牌所」、⑦「頤神室」、⑧「義政公香華所」
入手場所 ①は開山堂内の納経所、②は承天閣美術館、③~⑤は塔頭長得院、⑥~⑧は塔頭慈照院(いずれも公開時のみ)。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 龍でデザインされたものなど数種類あります。
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歴史

1382年(永徳二年)、室間幕府第三代将軍足利義満によって幕府の東側に建てられ、1392年(明徳三年)までに主要な伽藍が完成。寺号は義堂周信の提案で承天相国寺と決まり、足利義満は春屋妙葩を開山に招いたが、春屋は固辞して、夢窓疎石を勧請開山(師を開山にする事で、疎石はこの時すでに亡くなっている)に据え、自身は二世住持となった。
五山の制では京都五山第二位に列せられ、広大な寺領を持ち、1399年(応永六年)には室町幕府第二代将軍足利義詮の三十三回忌供養塔として高さ109mの七重塔が建てられている。また、塔頭の鹿苑院には五山の統括機関鹿苑僧録があり五山の中核として広く影響力を持った。
しかし、度々火災に遭い、応仁の乱では細川方の陣地になったためほとんどの伽藍を焼失し衰微した。
1584年(天正十二年)、九十二世住持となった西笑承兌は豊臣秀吉に重用され、1605年(慶長十年)には豊臣秀頼の支援で多くの堂宇が再興されるなど復興が進んだ。
しかし、その後も度々火災に遭い、1788年(天明八年)には法堂以外のほとんどの建物が焼失した。
明治に入ると廃仏毀釈の風潮や寺領の減少で苦境に立たされたが第百二十六世独園承珠の尽力で乗り越え、現在では臨済宗相国時派の総本山として100近い相国寺派の寺院を束ねる。

 
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