公暁:1200年~1219年(正治二年~建保七年一月二十七日)
鎌倉幕府二代目将軍源頼家の次男。
頼家の死後、北条政子の計らいで僧侶となる。
1219年(正治二年)、鶴岡八幡宮で叔父で三代将軍の実朝を暗殺したが、直後に討ち取られた。
頼家の子
公暁は頼朝の亡くなった直後の1200年(正治二年)に二代目将軍頼家の三子として誕生。
母は賀茂六郎重長の娘または比企能員の娘で、幼名を善哉といった。
1203年(建仁三年)比企能員の乱が起こると頼家は伊豆へ退けられ、実朝が三代将軍となった。
兄の一幡はこの争いに巻き込まれ比企一族とともに殺さており、頼家も翌年北条氏の手で暗殺される。
残された公暁は北条政子の計らいで1211年(建暦元年)鶴岡八幡宮の別当貞暁の弟子となり、僧籍に入る。
京都へ行き園城寺(三井寺)で修行した後、1217年(建保五年)に鎌倉へ戻ると鶴岡八幡宮別当に就任した。
実朝暗殺
この間、父の仇は実朝と北条義時にあると考えるようになった公卿は復習の機会を窺っていた。
1219年(建保七年)、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮を参詣するとこれを襲撃。
実朝と北条義時だと勘違いした源仲章を切り殺した。
公暁は実朝の首を持ち雪ノ下北谷の備中阿闍梨宅へ逃げ、三浦義村に援助を求め将軍になろうとする。
しかし北条義時と相談した義村応じず、逆に追討の兵を出した。
阿闍梨宅から逃げ出した公暁は途中で、三浦義村の手下長尾定景に討たれ死亡した。
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公暁ゆかりの寺社・史跡
- 鶴岡八幡宮
実朝を暗殺した場所。公暁が隠れていたという大銀杏があったが、2010年に風で倒れた。
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