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基本情報
知名度 | ★★★ |
平均評価 | |
種類 | 寺院(真言宗大覚寺派) |
アクセス | 嵯峨嵐山駅徒歩17分。市バス・京都バス大覚寺すぐ。嵐山駅徒歩23分。駐車場50台分有り(500円/2時間)。 |
概要 |
大覚寺は京都市右京区嵯峨大沢町にある古儀真言宗の寺院。 876年(貞観十八年)に嵯峨天皇の離宮を天皇の皇女で淳和天皇皇后の正子内親王が、淳和天皇の第二子恒寂親王(恒貞親王)を開山として寺に改めたのが始まり。 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて持明院統と皇統を争った大覚寺統の「大覚寺」はこの寺のことで、亀山天皇や後宇多天皇がここに住み院政を行なったことからそう呼ばれるようになった。 その後、代々法親王(出家後、親王を名乗ることを許された皇族)が住持を務める門跡寺院として高い寺格を誇った 境内は御所風の雰囲気が残り、大沢池の周りは春に桜、秋に紅葉の名所としても知られている。 |
見どころ | 宸殿、正寝殿、御影堂、勅封心経殿、五大堂(本堂)、大沢池 |
拝観時間 | 9時~17時(受付は16時30分) |
拝観料 | 大人500円、小中高300円。大沢池200円 |
サイト | https://daikakuji.or.jp/ |
住所 | 京都市右京区嵯峨大沢町4 |
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大覚寺の見どころ
宸殿
後水尾天皇の中宮東福門院(江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の娘)の御殿を移築したもの。内部は紅梅の間、牡丹の間、柳松の間、鶴の間に別れ、それぞれに豪華絢爛な襖絵が飾られている。紅梅の間の紅梅図と牡丹の間の牡丹図は狩野山楽の代表作とされ名高い(実際に飾られているのは複製)。廊下は歩くと軋み音が出るように意図的に作られている鶯張り。
正寝殿(客殿)
現存する入母屋造桧皮葺書院風建築は桃山時代の再建であるが、後宇多天皇が院政を執った場所で、南北朝合一の協議もここで行なわれたと伝えられる。内部は12室に分れ、東列の「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」、中央列の「雪の間」「鷹の間」、西列の「山水の間」「聖人の間」及びら諸室の南側と東側にある狭屋から成る。「御冠の間」は後宇多天皇が冠を傍らに置き、政務を執り行った部屋を再現しており、帳台構えには嵯峨蒔絵といわれる蒔絵が施されている。また、各部屋には狩野山楽や渡辺始興による襖絵が飾られている。
御影堂
大正天皇の即位に際し建てられた饗宴殿を、1925年(大正十四年)に移築したもので、中央の間からは正面の勅封経殿を拝めるように造られている。内部には嵯峨天皇像や後宇多法皇像、恒寂入道親王像、弘法大師像を安置する。
勅封心経殿
1925年(大正十四年)、後宇多法皇600年遠忌と後亀山天皇500年遠忌を記念して、法隆寺夢殿をモデルに建てられた鉄筋コンクリート製の六角堂。内部には嵯峨天皇が818年(弘仁九年)に疫病退散を願って写経した般若心経をはじめ、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。
五大堂(本堂)
嵯峨天皇が弘法大師に五大明王の秘法を修めさせたのが起源とされ、大沢池の畔に立つ現在の建物は天明年間(1781年~1789年)の建立。内部には不動明王を中心に五大明王を安置する。元々安置されていた藤原時代の五大明王は現在収蔵庫に移されており、代わりに松久朋琳、松久宗琳によって1975年(昭和五十年)に造られた像が本尊とされている。
大沢池
周囲約1kmに及ぶ大沢池は、嵯峨天皇が離宮を営んだ際に中国の洞庭湖をモデルに造られたため、庭湖とも呼ばれ、日本最古の人工の庭池とされる。池の中には、菊ヶ島、天神島、庭湖石が浮かび、周辺には藤原公任が999年(長保元年)に「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」と詠んだ事で有名な名古曽滝の跡や経宝塔、五社明神、護摩堂などの小堂がある。新緑や紅葉も美しいが、桜が特に有名で、春の花見シーズンには大沢池周りが桜で埋め尽くされる。
御朱印・御朱印帳
種類 | ①「五大明王」の御朱印、②「心経殿」の御朱印、③「心経宝塔」の御朱印、④御詠歌の御朱印 |
入手場所 | 拝観受付の御朱印所など。 |
値段 | 1件300円 |
オリジナル御朱印帳 | 何種類かオリジナル御朱印帳が販売されています。 |
大覚寺の歴史
はじめ嵯峨天皇(786-842年)の離宮である嵯峨院がこの地に造られ、この頃天皇の信任を得た弘法大師によって五大明王が祀られたと伝えられる。
876年(貞観十八年)、淳和天皇の皇后で嵯峨天皇の皇女である正子内親王が寺に改め大覚寺と号し、開山には承和の変によって廃太子となった淳和天皇の第二子恒貞親王(恒寂入道親王)が就いた。
その後、三世の定昭が興福寺内に一乗院を創建したため、1268年(文永五年)まで一乗院住持の兼任となった。
鎌倉時代後期になると、後嵯峨、亀山、後宇多上皇が入寺し、特に後宇多上皇はここで院生を執り行ったたため嵯峨御所とも呼ばれるようになり、以後この系統の皇子や上皇が入寺することなった。
この系統は大覚寺統と呼ばれ、後深草らの持明院統と対立するようになり、鎌倉時代後期には両統から交互に天皇を出すことで解決されたが、後醍醐天皇(大覚寺統)が建武の新政を開始するとこの原則は崩れ、後醍醐と対立した足利尊氏によって持明院統の天皇が擁立されると、皇統は北朝の持明院統と南朝の大覚寺統に分裂した(南北朝時代)。
1392年(明徳三年)には当寺にて南北朝の和議が成立し、南朝最後の天皇・後亀山天皇は当寺の小倉御殿に隠棲している。
1468年(応仁二年)、応仁の乱に巻き込まれほとんどの伽藍が焼失して一時荒廃を余儀なくされた。その後織田信長や豊臣秀吉の寄進で復興され、江戸時代には後水尾天皇の寄進もあり現在に繋がる寺観が形作られた。
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