和気清麻呂

和気清麻呂:733年~799年(天平五年~延暦十八年)
奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した貴族・政治家。
769年(神護景雲三年)、道鏡が皇位に就こうとしたのを阻止したため怒りを買い流罪となったが、後に許され復帰した(宇佐八幡神託事件)。桓武天皇の進めた長岡京遷都事業に尽力し、これが行き詰まると平安京への遷都を勧めた。
 
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宇佐八幡神託事件

清麻呂は備前国藤野郡(和気郡)の豪族・磐梨別公乎麻呂の子として733年(天平五年)に誕生。
姉の広虫と共に称徳天皇に仕え、766年(天平神護二年)には従五位に列せられ、近衛将監に任ぜられた。
君主である称徳天皇は法相宗の僧・弓削道鏡を寵愛して、太政大臣禅師という位を与えるなど政権内では道鏡一派が権力を握っていた。そんな中、769年(神護景雲三年)、大宰帥に任じられた道鏡の弟弓削浄人と大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂によって宇佐八幡で道鏡を皇位に就かせれば世の中治まるとのいう内容の神託があったと報告される。
称徳天皇は広虫にこれを確認するように命じるが、病弱な広虫に長旅は堪えるということで弟の清麻呂が任にあたることとなった。宇佐八幡宮から大和へ戻った清麻呂は「我が国では、臣下の者が皇位についたことはない。皇位は皇族が継ぐべし」との神託を上奏。
これを聞いた称徳天皇は激怒し、広虫は別部広虫売、和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅国(鹿児島県)に配流された。

復帰

流人となった清麻呂だが、770年(神護景雲四年)称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位すると赦され都に戻った。
桓武天皇のもとでは、783年(延暦二年)に摂津大夫に就任して河内国と摂津国の境に河川を通すという水利事業に従事。また、長岡京への遷都事業が行き詰まると他の場所への遷都を提言。
793年(延暦十二年)には造宮大夫に任ぜられ平安京造営に尽力。799年(延暦十八年)死去。贈正三位・正一位。

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和気清麻呂ゆかりの寺社・史跡

  • 神護寺
  • 前身の神願寺を創建している。

  • 護王神社
  • 清麻呂と姉の広虫を祀る。

  • 将軍塚
  • 高台にあり、平安京への遷都の際に桓武天皇を連れて下見した場所との伝承がある。

  • 愛宕神社
  • 清麻呂が再興したとの伝承がある。

 
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