中宮寺

[spp]

基本情報

知名度 ★★★
平均評価




2

種類 寺院(聖徳宗)
アクセス JR法隆寺駅から徒歩22分。近鉄筒井駅から王寺駅行きバスで中宮寺前下車、徒歩5分。→詳細
概要 中宮寺は奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北にある聖徳宗の尼寺。
正確な創建年代は不明だが、伝承では聖徳太子の母穴穂部間人皇后の発願で建てられた、あるいは皇后の死後に聖徳太子がその宮を寺に改めたとのが始まりとされ、当時の寺地は現在地の500m程東にあった。
所蔵の木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)と天寿国繍帳はともに国宝に指定されている。
見どころ 本堂木造菩薩半跏像天寿国繍帳残闕
拝観時間 10月1日-3月20日→9時~16時、3月21日-9月30日→9時~16時30分(拝観受付は終了15分前まで)。
拝観料 大人600円、中学生450円、小学生300円
サイト http://chuguji.jp/
住所 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2

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中宮寺の見どころ

本堂

現存の建物は1968年(昭和四十三年)に、三皇女が住持を務めるなど当寺と関係の深かった有栖川家の祭祀を継承した高松宮家の宣仁親王妃喜久子(徳川喜久子)の発願で建てられたもの。設計は歌舞伎座や大和文華館を手掛けた吉田五十八による。

木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)

本堂に安置される中宮寺の本尊で、寺伝では如意輪観音とされるが元は弥勒菩薩として造られたものだと考えられている。製作の事情は伝っていないが飛鳥時代後期の作とされ、黒塗りの現在とは違って当初は肌色に塗られ、胸飾りなどの装飾を纏っていた痕跡があるという。顔には微笑を浮かべ、エジプトのスフィンクスやレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと共に世界三大微笑像とされることもある。また、同じく聖徳太子に縁のある広隆寺の半跏思惟像とよく比較される。クスノキ材の寄木造、象高133cm。国宝に指定。

天寿国繍帳残闕

本堂に納められている刺繍のことで、亀甲に縫い付けられた銘文や9世紀までに成立した聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」によれば、622年(推古天皇三十年)に太子が没した後、妃の橘大女郎が太子を偲んで、太子の往生した天寿国の様子を渡来系の工人に描かせ。采女たちによって刺繍が施されて完成したという。その後所在不明となっていたが、1274年(文永十一年)、中宮寺の信如が法隆寺の網封蔵で発見して中宮寺に移したとされる。元は1丈6尺四方を2枚繋げたものであったというが、現在残されているのはその断片を繋ぎ合わせたもの。本堂で見られるのは複製で本物は奈良国立博物館に寄贈されている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①法興山「如意輪観音」、②尼寺第十五番「如意輪観音」、③聖徳太子御遺跡霊場第十五番「太子往生天寿国」
入手場所 拝観受付。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 表に「中宮寺門跡」と入ったシンプルな御朱印帳があります。サイズは18.5×12.5㎝、値段は1000円。
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歴史

古くは斑鳩尼寺と呼ばれ、聖徳太子の母穴穂部間人皇后の発願で建てられた、あるいは皇后の死後に聖徳太子がその宮を寺に改めたとされるが正確な事はわかっていない。寺地は現在よりも東に550mほどいったところにあり、昭和期に行われた発掘調査で金堂跡や塔跡が発見され四天王寺式の伽藍配置だったことがわかっている。
平安時代になると衰微し、鎌倉時代には興福寺から来た信如比丘尼(天寿国繍帳を発見した人物)によって再興されたが、1309年(延慶二年)の火災以降は再び衰えた。
天文年間(1532年~1555年)に現在地に移転し、1602年(慶長七年)に尊智女王が入寺して以来宮家の皇女が代々入寺する尼門跡寺院となり、斑鳩御所ともよばれた。
明治に入ってからは真言宗泉涌寺派に属したが、1952年(昭和二十七年)、法隆寺が聖徳宗を立ち上げるとこれに加わった。

 
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