神田明神

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 神社
アクセス 東京メトロ銀座線末広町駅徒歩5分。秋葉原駅から徒歩10分。御茶ノ水駅徒歩7分、無料駐車場あり。→詳細
概要 東京都千代田区外神田にある神社で、神田明神の名で親しまれているが正式には神田神社という。
社伝によれば、730年(天平二年)に出雲氏族出身の真神田臣が武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町辺り)に大己貴命を祀って社を建てたのが始まりだといい、現在では大己貴命・少彦名命・平将門を祭神としている。
境内はそれほど広いわけではないが社殿の他に三稲荷社、三天王社などの末摂社が建ち並び、記念碑も多い。
主な行事には、だいこく祭(1月中旬)、春大祭(4月4日)、神田祭(隔年開催で西暦奇数年の5月中旬に行われる)、秋大祭(11月25日)がある。
見どころ 随神門本殿だいこく様尊像えびす様尊像資料館銭形平次の碑江戸神社水神社屋上庭園神田の家
拝観時間 24時間(祈祷の受付は午前9時~16時、授受所は9時~16時30分)
拝観料 境内自由(資料館は大人300円、小人200円)
サイト http://www.kandamyoujin.or.jp/
住所 東京都千代田区外神田2-16-2

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神田明神の見どころ

随神門

境内入り口に位置する入母屋造銅板瓦棒葺の重層門。1975年(昭和五十年)、昭和天皇即位50年の記念事業の一環として建てられた。
四神(朱雀、白虎、青龍、玄武)や将門に纏わる繋ぎ馬、大国主の登場する因幡の白兎をモチーフにした彫刻が施され、正面に随神像、右に豊磐間戸神像、左に櫛磐間戸神像を安置する。

本殿

1782年(天明二年)に建てられた社殿は1923年(大正十二年)の関東大震災で失われ、1934年(昭和九年)に再建されたのが現存する建物。鉄筋コンクリートでできており、東京大空襲にも耐え抜いた。
一ノ宮に祀られる大己貴命(大国主)は記紀神話に登場する神で、天孫降臨以前に二ノ宮に祀られる知恵の神・少彦名命と協力して国を造り、後に天津神の使者に神殿(出雲大社)の建立と引き換え国を譲ることを約束し、冥界の主になったという話が伝えられている。
三ノ宮に祀られている平将門は939年(天慶二年)に常陸国国府を襲撃して反乱を起こし、関東一帯を支配して新皇を称したが藤原秀郷・平貞盛らに討たれた人物で、京でさらし首にされた後武蔵国豊島郡芝崎村に葬られたとされる。
これが現在も残る将門の首塚(千代田区大手町1-2-1)で、鎌倉時代後期には塚が荒れ果てため将門が祟りを起こし、これを鎮めるため1309年(延慶二年)に芝崎村にあった当社に合祀されたという。
明治になると朝敵である将門を祀ることに新政府からケチがつき、別殿に遷されることとなったが、1984年(昭和五九年)に祭神として復活している。
将門に関しては神田明神を崇拝する者は成田山新勝寺にお参りしてはならないという伝承も残されている。
なぜ新勝寺がダメなのかといえば、将門の乱の際に真言宗の僧・寛朝が京都の高雄山神護寺の不動尊像と宝剣をを持って成田山に向かい、朝敵降伏の祈祷を行ったことによる。

だいこく様尊像

境内に置かれた高さ6.6m重さ約30tの巨大な石像で、石造りの大黒像としては日本一の大きさだという。
大黒天は元々はインドの戦闘の神だが、密教とともに日本に入り大国主(=大己貴命)と習合されて信仰された。

えびす様尊像

亀やイルカ、鯛などに守られて波の中をゆくえびす様を描いたユニークな像。
大黒様とおなじく七福神のひとりとして知られるえびす様だが、神田明神では少彦名命と同一の神としている(一般には大国主の子・事代主神と同一視されることが多い)。
東京藝術大学学長を務めた工芸家の宮田亮平氏の作。

資料館

1階には年祭を行うための祭祀殿となっており、2階に神田祭に関する写真や資料、3階に神田明神に伝わる宝物、各階に江戸時代の錦絵を展示する。
開館は土日祝日のみで、10~16時まで、拝観料大人300円、子供200円。

銭形平次の碑

本殿を右手に回ったところにある石碑で、土台は江戸時代の通貨寛永通宝を象っている。
銭形平次は野村胡堂(1882年~1963年)の小説「銭形平次捕物控」の主人公であり、神田明神下元台町に女房のお静と住み、銭を投げて悪人を捕らえる岡っ引として描かれている。
1970年(昭和四十五年)、日本作家クラブが発起人となり、文芸春秋の池島信平や大映の永田雅一ら有志の手によって建てられた。隣には銭形の子分がらっ八(八五郎)の碑も建てられている。

江戸神社

神田明神の摂社のひとつで、建速須佐之男命を祀る。
社伝によれば、702年(大宝二年)豊島郡江戸(現在の皇居内)に創建された江戸最古の地主神とされ、鎌倉時代には江戸氏の氏神として崇敬され、1603年(慶長八年)江戸城の拡張の際に当社内に遷され神田青物市場の守護神として信仰された。5月14日に例祭が行われる。
境内には同じく建速須佐之男命を祀る大伝馬町八雲神社と小舟町八雲神社があり、合わせて三天王と呼ばれている。

魚河岸水神社

神田明神の末社のひとつで、弥都波能売命を祀る。
はじめ芝崎村にあったが神田明神と共に移り境内に祀られ、日本橋魚河岸の守護神として信仰された。
魚市場が日本橋から築地に移動した際には築地市場内に遙拝所が建てられ、現在も市場関係者の信仰を集めている。

屋上庭園

境内西側にある駐車場の屋上に造られた珍しい庭園で、開発によって緑が失われていった都心に少しでも緑を取り戻そうと整備されたという。
梅、ツバキ、雪柳、ハナミズキ、桜などが植えられ花見が楽しめる。入場無料、開園時間10時~16時。

神田の家

屋上庭園の北側に建つ古民家で千代田区の指定有形文化財となっている。
江戸城築城のために鎌倉の材木座から神田鎌倉町(現内神田1丁目)に移住したという材木商遠藤家の店舗兼住宅として1927(昭和二年)に建てられ、2009年(平成二十一年)に現在地に移築された。

御朱印・御朱印帳

種類 「神田明神」の御朱印または「神田神社」の御朱印。
入手場所 拝殿横の授与所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 あり(現在は限定のラブライブ御朱印帳もある)。サイズは縦16cm×横11cm。

歴史

社伝によれば、730年(天平二年)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)が武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町辺り)に大己貴命を祀って社を建てたのが始まりとされ、古くは神田ノ宮と称した。
939年(天慶二年)、反乱を起こして一時関東を支配した平将門は藤原秀郷らに討たれ京でさらし首にされた後、芝崎村の当社近くに葬られたという(現在も大手町に残る将門の首塚がその墓とされる)。
鎌倉時代後期、周辺で疫病の流行や天変地異が相次ぐと将門の祟りが噂され、これを聞いた時宗の僧・他阿真教が塚を修復して将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈り、さらに1309年(延慶二年)当社に将門を合祀したという。
戦国時代には太田道灌や北条氏綱といった戦国大名の信仰を集め、徳川家康は関ケ原の合戦に臨む際に当社で勝利を祈願したといい、江戸時代には徳川家から篤く崇敬され、江戸総鎮守とされた。また江戸三大祭りのひとつに数えられる神田祭は江戸城域内に入るため天下祭とも呼ばれ、盛大に執り行われたことで知られる。
社地は江戸城の拡張によって一時駿河台に遷され、1616年(元和二年)に現在地に落ち着いた。
明治に入ると准勅祭社、東京府社に列せられたが、朝敵である平将門を祀ることが問題視され、将門は別殿に遷され、1874年(明治七年)、茨城の大洗磯前神社から少彦名命が請来された。また、社名の神田明神も神仏分離令の影響から神田神社に改められた。
1923年(大正十二年)の関東大震災で社殿を焼失したが、1945年(昭和二十年)の東京大空襲では大きなダメージを受けることはなく、1976年(昭和五十一年)には将門を祭神として復活させている。

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アクセス

最寄駅は御茶ノ水か末広町になりますが、秋葉原からでも所要時間はそれほど変わりません。

御茶ノ水駅から

御茶ノ水駅(聖橋口)から北東へ進む→湯島聖堂前交差点右折→東へまっすぐ進む。徒歩約5分。

秋葉原駅から

秋葉原駅電気街口から西へまっすぐ進む→突き当たりを右折→最初の信号を左折→西へまっすぐすすむ。徒歩約7分。

末広町駅から

蔵前橋通りを通り、ガソリンスタンドを過ぎたところで左折。所要時間約5分。

バスを利用

茶51(駒込駅⇔秋葉原駅)で神田明神下車、徒歩1分。または外神田二丁目下車、徒歩5分。

駐車場

神社正面の鳥居をくぐり隋神門右側の脇門に入ったところに参拝者専用の無料駐車場があります。

 
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