西本願寺

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(浄土真宗本願寺派)
アクセス JR京都駅から徒歩15分。市バス西本願寺前または島原口で下車すぐ。→詳細
概要 西本願寺は京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山寺院。
単に本願寺が正式名称だが他の本願寺と区別するために西本願寺と呼ばれ、地元では「お西さん」の愛称で知られる。
本願寺の歴史は1262年(弘長二年)に亡くなった親鸞の遺骨を京都東山大田谷に埋葬した事に始まり、他宗の襲撃や戦国大名との対立で各地を転々として1591年(天正十九年)現在地へ落ち着いた。
書院、飛雲閣などは国宝。全体は古都京都の文化遺産の一部として世界遺産に登録されている。
※西本願寺に御朱印はありません(参拝記念スタンプはあります)。
見どころ 御影堂大銀杏阿弥陀堂書院飛雲閣唐門鐘楼北能舞台伝道院
拝観時間 3、4。9、10月→5時30分~17時30分、5-8月5時30分~18時、11-2月→5時30分~17時
拝観料 境内無料
サイト http://www.hongwanji.or.jp/
住所 京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町

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西本願寺の見どころ

御影堂

境内中央に位置する東西48m、南北62m、高さ29mの巨大な建物で、大師堂とも呼ばれる。
現在の建物は1617年(後元和三年)に火災で焼失した後、1636年(寛永十三年)に再建されたもので、1800年(寛政十二年)と1999年~2008年にかけて大規模な修復が行われている。
内部には親鸞の遺灰を漆に混ぜて塗ったとも言われる親鸞聖人坐像を安置する
本堂(阿弥陀堂)よりも大きく西本願寺の中心をなす建物となっているのは、本願寺が親鸞の霊廟から始まった歴史によるという。

大銀杏

御影堂の前には高さ15m、樹齢400年以上と言われる銀杏があり、1788年(天明八年)に起きた天明の大火の際に水を吐き出して寺を護ったとの言い伝えから水吹き銀杏と呼ばれる。

阿弥陀堂

西本願寺の本堂にあたる建物で、本尊の阿弥陀如来立像や聖徳太子の画像などを安置する。
建物は1617年(後元和三年)の火災で焼失し、1760年(宝暦十年)に再建されたもので、単層入母屋造本瓦葺、東西42m、南北45m、高さ25mの典型的な真宗建築。

書院

境内南西に位置する正面十八間、側面十四間、単層入母屋造本瓦葺の建物。
内部は対面所(鴻の間)と白書院及び付属の諸室に分かれるが、両者は元々別の建物であったといい、伏見城の遺構を移したものという説もあるが不明な点が多い。
対面所は信徒などと面会するために使われるもので、203畳からなる巨大な空間を持ち、位の高い人が着座する上段、上々段を設ける。下段と上段の境にある欄間には雲と鴻の透彫りが施されていることから「鴻の間」とも呼ばれ、狩野派の絵師渡辺了慶の筆とされる障壁画や天井がが一面に広がる豪華絢爛な空間となっている。
白書院は対面所の北側にあり、一の間(紫明の間)、二の間、三の間(孔雀の間)からなり、三の間は、畳を取り除くと板敷きになり能を演じる事ができるように工夫されている。
書院の北東に位置する黒書院は白書院と伝廊で繋がり、伝廊とともに国宝に指定されているが門主の私室として使われており基本的には非公開となっている。
対面所の東には虎渓の庭と呼ばれる枯山水庭園があり、国の特別名勝・史跡に指定されている。

飛雲閣

西本願寺境内の東南隅に建つ3層構造の建物で、豊臣秀吉の営んだ聚楽第から移したものとも言われる。
一層は招賢殿、二層は歌仙の間、三層は摘星楼と名付けられており、前面には滴翠園という庭園が広がる。
鹿苑寺の金閣、慈照寺の銀閣と共に京都三閣の一つとされる。基本的に非公開。
飛雲閣と伝廊で結ばれた浴室(黄鶴台)は、秀吉が使用したという蒸風呂である。

唐門

北小路通に面して立つ門で、その豪華絢爛は一日中見ていても飽きない事から日暮門とも呼ばれる。
聚楽第の遺構あるいは伏見城の遺構ととされ、御影堂前にあったものが1618年(元和四年)に現在地へ移された。
中国の許由と張良の故事を題材としたものや龍、麒麟、孔雀などの派手な彫刻が一面に施されている。
豊国神社や大徳寺の唐門と共に桃山の三唐門の一つに数えられている。

鐘楼

滴翠園の一角にある単層切妻造本瓦葺の建物。
太泰が広隆寺から移したという久安六年(1150年)の銘を持つ鐘が吊るされていたが、1996年(平成八年)に引退し、現在は安穏殿の入り口に置かれている。

北能舞台

白書院の北にある建物で、発見された墨書から1581年(天正九年)建立とされ、現存する最古の能舞台。単層前面入母屋造、背面切妻造、檜皮葺。
境内には対面前に南能舞台もあり、現在でも能が演じられることがあるが通常は非公開。

伝道院

堀川通を渡って少し行ったところにある建物。
真宗信徒生命保険株式会社の社屋として1895年(明治二十八年)に数々の寺社建築で知られる伊東忠太の設計で建てられたもので、現在は僧侶の教育施設として使われている。重要文化財。

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西本願寺の歴史

始まり

1263年(弘長二年)、90歳で亡くなった浄土真宗の宗祖親鸞は、初め京都東山大谷に葬られたが、1272年(文永九年)、吉水の北にあった親鸞の末娘覚信尼の住居へと移され、信徒達はそこ六角のお堂を建てた。これが本願寺の起源となる大谷廟堂で、覚信尼は敷地を教団に寄進して、自身は廟堂を管理する留守職に就任し、以後その職は覚信尼の子孫が世襲することとなった。
本願寺の寺名は三世覚如の頃から使い始めたとされ、教団の活動はしばらく不振だったが8世に蓮如が就任すると果敢に活動し発展の基礎が作られた。

他宗派・戦国大名との対立

しかし、比叡山延暦寺の怒りを買い、1465年(寛正六年)には大谷を襲撃され転出を余儀なくされたため蓮如は越前の吉崎(現福井県あわら市)に移り北陸での布教に力を入れ勢力を回復した後、1480年(文明十二年)に京都の山科に本願寺を再建した。
また1496年(明応五年)には大阪に石山本願寺を築き、1488年~1580年にかけて加賀国を一向一揆により実効支配するなどその勢力圏は格段に拡大した。
そのため他宗はや戦国大名との対立も激しくなり、1532年(天文元年)には日蓮宗徒他によって山科が焼き討ちに会い、石山本願寺に本拠を移転した。
石山では寺内町を形成し強固な拠点を築いたが全国統一を目指す織田信長と対立を深め、1570年(元亀元年)から10年間に及ぶ石山合戦が始まる。
結局、1580年(天正八年)に和睦が成立し、第十一世顕如は石山を退去することとなった。

その後と東西分裂

その後、紀伊鷺森(現和歌山市)、次に和泉貝塚に移転し、1585年(天正十三年)に豊臣秀吉から寺地を与えられ大阪天満に移り、更に1591年(天正十九年)、再び秀吉から京都堀川通六条に広大な土地を寄進されここ移った。これが現在地である。
顕如の死後、長男の教如と3男の准如が跡目を争ったが、1593年(文禄二年)の秀吉の裁定の結果准如が第十二世に就任した。
しかし1602年(慶長七年)、兄の教如は徳川家康から寺地を得て東本願寺を設立したため、教団は分割され勢力は半減した。
1596年(慶長元年)には地震で多くの建造物が倒壊し、1617年(元和三年)には火災で御影堂、阿弥陀堂が焼失するなどの災害に遭っている。

 
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