比叡山延暦寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(天台宗)
アクセス 坂本ケーブル延暦寺駅から徒歩8分。駐車場あり。→詳細
概要 延暦寺は滋賀県大津市坂本本町にある天台宗の総本山寺院。
日本天台宗の開祖である最澄(伝教大師)が788年(延暦七年)に建てた一乗止観院が始まりであり、最澄没後、延暦寺の寺名を賜り、弟子達により徐々に拡張されて日本屈指の大寺院に発展した。
比叡山山内の500ヘクタールという広大な敷地が境内であり、東塔、西塔、横川の三塔を中心に多数の堂宇が建ち並び、延暦寺はこれらの総称である。
1994年(平成六年)には「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。
主な行事には、修正会(1月1~3日)、節分会(2月3日)、比叡の大護摩(3月13日)、御修法(4月4~11日)、比叡の桜(4月下旬~5月上旬)、伝教大師誕生会(8月17日~18日)、比叡の紅葉(11月)、鬼追い式・除夜の鐘(12月31日)がある。
見どころ 東塔(根本中堂文殊楼大黒堂法華総持院東塔大講堂国宝殿)、西塔(釈迦堂常行堂・法華堂瑠璃堂)、横川(横川中堂四季講堂
拝観時間 東塔地区→8時30分(冬季は9時)~16時30分、西塔・横川地区→9時(冬季は9時30分)~16時。
拝観料 諸堂→大人700円、中高生500円、小学生300円。国宝殿→大人500円、中高生300円、小学生100円。セット料金→大人1200円、中高生800円、小学生はセット料金なし。
サイト http://www.hieizan.or.jp/
住所 滋賀県大津市坂本本町4220

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延暦寺の見どころ

根本中堂

延暦寺根本中堂根本中堂(photo by Tamago Moffle

東塔の中心をなす建物であり、延暦寺全体のの総本堂でもある。
788年(延暦七年)に最澄が建てた一乗止観院が前身であり、現存の建物は江戸幕府第三代将軍徳川家光の支援で1642年(寛永十九年)に再建されたもの。
はじめ3つの小堂が並ぶ形をとっていたが、円珍の時に3堂がひとまとめにされ、その後再建の度に大規模になり、現存の建物は幅37.6メートル、奥行23.9メートルという大建築になっている。
堂内は内陣、中陣、外陣に分かれ、外陣よりも約3メートル低い土間の内陣には石壇が築かれ3基の厨子が置かれている。
その中央の厨子には最澄自刻とも伝えられる秘仏の本尊薬師瑠璃光如来立像が納められ、その前面には1200年間灯りを灯し続けているという「不滅の法灯」が置かれている。建物は国宝に指定。

文殊楼

根本中堂の東側の石段上に位置する重層門で、延暦寺の総門にあたる。
慈覚大師円仁によって建てられたのが始まりであり、現存の門は1668年(寛文八年)に焼失した後の再建。
唐に渡った円仁が巡礼した五台山(山西省東北部、文殊菩薩の霊場)の霊石が五方に埋められ、楼上には文殊菩薩像を安置する。

大黒堂

大黒堂が建っているのは最澄が比叡山での修行中、大黒天を見た伝えられる場所であり、堂内には大黒天、毘沙門天、弁財天の顔を持つ三面大黒天が祀られている。
この大黒天に豊臣秀吉が願をかけて出世を遂げたという話から出世大黒天とも呼ばれ、福徳開運、商売繁盛にご利益があるとして信仰を集めている。

法華総持院東塔

最澄の計画によって全国に6ヶ所に建てられた宝塔のひとつだが、織田信長による焼き討ちで焼失し、現存する塔は1980年(昭和五十五年)に再建されたもの。
初層に大日如来をはじめとする五智如来を祀り、上層に仏舎利と法華経を安置する。

大講堂

旧大講堂は1956年(昭和三十一年)に焼失し、現存する建物は1964年(昭和三十九年)に1634年(寛永十一年)建立の日吉東照宮讃仏堂を移築したもの。
内部には本尊大日如来像を中心に、最澄、円珍、円仁ら天台宗の高僧や日蓮、道元、栄西、法然、親鸞、一遍とった延暦寺で修行し他宗を興した人々の像が安置されている。

国宝殿

延暦寺に伝わる貴重な寺宝を収蔵、展示するための施設。
主な収蔵品には。最澄筆「天台法華宗年分縁起」(国宝)、嵯峨天皇筆「光定戒牒」(国宝)、薬師如来坐像(重文)、維摩居士坐像(重文)などがある。

釈迦堂(転法輪堂)

西塔の中心をなす建物で、堂内に釈迦如来像を安置することからこの名がある。
第二代天台座主円澄によって建てられたのが始まりだが、織田信長の焼き討ちで焼失し、現存する建物は1596年(文禄四年)に豊臣秀吉が三井寺(園城寺)の弥勒堂(金堂)を強制的に移築させたもの。
1347年(貞和三年)の建立であり、現存する境内最古の建造物となっている。

常行堂・法華堂

並びあってあるほぼ同形の二つの建物で、常行堂は阿弥陀如来像、法華堂は普賢菩薩を本尊とする。
弁慶がこの二つの建物を繋ぐ渡り廊下に肩をかけて担いだという伝説から、にない堂とも呼ばれる。

瑠璃堂

信長による焼き討ちで唯一焼け残ったといわれる建物だが、釈迦堂よりは新しく室町時代の建築。
内部には薬師瑠璃光如来像を安置する。

横川中堂

横川エリアの中心をなす堂宇であり、堂内には円仁自作と伝えられる聖観音菩薩を安置する。
円仁によって創建されたのが始まりだが、信長の焼き討ちで焼失し、その後に再建された建物も1942年(昭和十七年)に落雷で焼失した。
現存する建物は1971年(昭和四十六年)も再建で、崖を利用した舞台造りで建てられている。

四季講堂(元三大師堂)

第18代天台座主良源=慈恵大師=元三大師の住居跡と伝えられ、四季に法華経の論議が行われたことからこの名がある。
現在多くの寺社で見られるおみくじは良源が発案したものだといわれ、四季講堂はおみくじ発祥の地とされている。

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歴史

最澄が788年(延暦七年)に薬師如来を本尊として現在の根本中堂辺りに一乗止観院を建てたのが延暦寺の始まり。
最澄はさらに比叡山に戒壇(僧尼になるための戒律を授ける場所)を設置するべく精力的に活動したが、旧仏教側からの反発もあり、戒壇の新設はなかなか認められなかった。しかし、最澄の死後7日後に認められ、翌823年(弘仁十四年)、「延暦寺」の勅額を授かった。これにより天台宗は独立した仏教教団として確固たる地位を築き、延暦寺はその中心として発展していくことになった。
最澄はまた壮大な伽藍を建てることを計画したが生前にはかなわず、延暦寺は天台座主を継いだ円澄、円仁、安慧、円珍らによって徐々に寺観を整えていった。
特に円仁と円珍は共に唐に留学してまだ不十分だった密教の教えを学び、日本天台宗の発展に大きな貢献をしたが、やがて円仁派の僧と円珍派の僧が対立するようになり、993年(正暦四年)、円珍派の僧は三井寺(園城寺)に移り教団は分裂した。これにより山にの残った円仁派は山門派、山を降りた円珍派は寺門派と呼ばれるようになり、両者は以後も対立し、何度も焼き討ちが行われるなど武力闘争に発展した。
このためもあり平安時代中頃から多数の僧兵を擁するようになり、延暦寺の守護神山王権現を祀る日吉大社の神輿を担いで強訴を繰り返したため南都北嶺(興福寺と延暦寺を指す)と恐れられた。
一方すぐれた僧を多数輩出したことでも知られ、鎌倉仏教の担い手となった法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らはみな比叡山で修行している。
その強大な力はやがて世俗権力とも衝突するようになり、1435年(永享七年)には室町幕府の第6代将軍足利義教が延暦寺の僧を斬首したことに反発して根本中堂に立てこもった僧達が抗議の焼身自殺を遂げる事件が発生している。
1571年(元亀二年)には浅井・朝倉両軍を匿ったことが原因で、織田信長軍の焼打ちを受け、ほとんどの建物を失い、数千人が殺された(元亀の法難)。
その後、豊臣秀吉の支援や徳川家康のブレーンである天台宗の僧天海の尽力で復興され、現在に繋がる寺観が形成された。
明治に入ると神仏分離令により一体となっていた日吉大社と切り離され、廃仏毀釈の風潮の中で困難な状況に陥ったが、僧侶や信徒の努力でこれを乗り越えて現在にいたる。
1994年(平成六年)には「古都京都の文化財」の構成要素として世界遺産に登録された。

 
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