西大寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(真言律宗)
アクセス 近鉄奈良線・京都線・橿原線大和西大寺駅から徒歩3分。駐車場有(普通車最初一時間300円)。→詳細
概要 西大寺は奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗の寺院。
764年(天平宝字八年)、孝謙上皇(称徳天皇)の発願によって造営が開始されたのが始まりで、780年(宝亀十一年)頃までに主要な建物が完成した。
平安時代には度重なる災害などによって荒廃したが、1235年(嘉禎元年)に入寺した叡尊によって再興され、真言律宗の根本道場となった。
約一万坪ある境内には、本堂・四王堂・愛染堂・不動堂・大黒堂・鐘楼などが建ち並ぶ。建物は全て江戸時代以降の再建だが、絹本著色十二天像や金銅透彫舎利塔など貴重な文化財が多く残されている。
主な行事には、大茶盛式(1月15日、4月第2日曜日と前日、10月第2日曜日)がある。
見どころ 石落神社本堂愛染堂四王堂聚宝館奥の院
拝観時間 8時30分~16時30分(愛染堂・聚宝館は9時~)
拝観料 境内自由。本堂→400円、愛染堂→300円、四王堂→300円、聚宝館→300円、共通券→1000円。
サイト http://saidaiji.or.jp/
住所 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5

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西大寺の見どころ

石落神社

西大寺の鎮守社で、1242年(仁治三年)に叡尊によって創建されたものと伝えられる。現存の建物は室町時代中期の再建とみられ、奈良市指定文化財となっている。

本堂

現存する正面7間、側面5間、単層寄棟造の建物は寛政期(1789年~1801年)の再建で、土壁を用いず総板壁なのが特徴。重要文化財に指定されている。堂内には本尊の釈迦如来立像や弥勒菩薩坐像、弘法大師坐像、文殊菩薩騎獅像、興正菩薩坐像 などを安置。本尊は1249年(建長元年)に叡尊の発願によって仏師善慶一派が清凉寺式としてしられる京都清凉寺の三国伝来(インド・中国・日本)の釈迦如来像を模刻したもの。
脇侍を従えた文殊菩薩騎獅像は1302年(正安二年)に叡尊の十三回忌を記念して弟子たちによって造られたもの。
本堂前にはかつてあった東塔を支えていた礎石が残されている。

愛染堂

建物は1767年(明和四年)に京都の近衛家の邸宅を移築したもので、堂内には秘仏の愛染明王坐像(鎌倉時代)やその代わりの愛染明王坐像(江戸時代)、興正菩薩叡尊上人坐像を安置する。厨子に納められた本尊の愛染明王坐像は、1247年(宝治元年)に仏師善円によって造られた叡尊の念持仏で、蒙古襲来の際にこの像に祈りを奉げると手に持つ鏑矢が飛び去り暴風を起こして元軍の船を沈めたとの伝説を持つ。像高91cmの叡尊像は、弟子の惣持・鏡慧らの発願によって仏師善春らが1280年(弘安三年)に造ったもので、叡尊80歳の肖像。本尊の愛染明王坐像は1月15日~2月4日、10月25日~11月15日のみ公開。

四王堂

現存の建物は1674年(延宝二年)の再建で、内部には本尊の十一面観音立像や四天王像を安置する。四天王像は称徳天皇の発願で造られた創建にまつわる像だが、何度か火災に遭い持国天・増長天・広目天の大部分は12世紀頃の捕作で、木像となっている多聞天は左脚の一部を除いて1502年(文亀二年)以降の捕作。ただ付属する邪鬼は修復されてはいるが創建当初から残るもの。

聚宝館

西大寺に伝わる寺宝を保管するための施設で、1月15日~2月4日、4月1日~5月31日、10月25日~11月15日に公開。主な収蔵品には、金銅宝塔(国宝)、行基菩薩坐像(重文)、塔本四仏坐像(重文)などがある。なお、絹本著色十二天像(国宝)は奈良国立博物館東京国立博物館に寄託されている。

奥の院(体性院)

西北に500m程のところにある塔頭で、叡尊の没した場所だとされ、叡尊の墓である高さ3.5mの五輪塔がある。また近くには地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂や室町時代に建てられた納骨堂(骨導)がある。

御朱印

種類 ①「釈迦如来」の御朱印、②御詠歌の御朱印、③「十一面観音」の御朱印、④「愛染明王」の御朱印、⑤「大黒天」の御朱印、⑦「南無興正菩薩」の御朱印。
入手場所 ①、②、⑦は本堂の受付、③は四王堂の受付、④、⑤は愛染堂の受付。
値段 1件300円(⑦は500円)
オリジナル御朱印帳 ないようです。
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歴史

西大寺に創建者である孝謙天皇(称徳天皇)は病気の母光明皇太后に仕えるため、758年(天平宝字二年)に淳仁天皇に譲位する。この間朝廷では藤原仲麻呂(恵美押勝)が権勢を誇ったが、孝謙上皇は光明皇太后が亡くなると僧・道鏡を寵愛するようになり仲麻呂や淳仁天皇との関係が悪化した。
764年(天平宝字八年)、立場を失いつつあった仲麻呂が反乱を起こすがすぐに鎮圧され、仲麻呂は殺され淳仁は淡路島に流された(恵美押勝の乱)。これによって孝謙上皇は事実上天皇の地位に返り咲いたため、後世では重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。
西大寺創建の発願が出されたのはこの恵美押勝の乱が起きた日だと言われ、鎮護国家の思想によって国家の安泰を図る狙いがあった。このためまず「光明経」などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像が造られた。780年(宝亀十一年)頃までに諸伽藍が建立され敷地は約48haに及ぶ大寺に発展し、父聖武天皇の建てた東大寺に対して西大寺と名付けられた。
しかし平安時代に入ると、火災や自然災害が相次ぎ次第に衰微。また強大化した興福寺の影響下に入った。
1235年(嘉禎元年)に入寺した叡尊は荒れ果てた西大寺の務め、真言律宗の根本道場として再生され、更に幕府や民衆から広く信仰を集めて、東塔をはじめとした伽藍を創建した。
これらの伽藍も1502年(文亀二年)に兵火で焼失したが、江戸時代には300石の寺領を与えられ徐々に復興された。

 
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