築地本願寺

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基本情報

知名度 ★★★★
平均評価


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種類 寺院(浄土真宗本願寺派)
アクセス 東京メトロ日比谷線築地駅すぐ。有楽町線新富町駅から徒歩5分。都営地下鉄浅草線東銀座駅徒歩5分。大江戸線築地市場駅徒歩5分、専用駐車場はない(大型バス用はあり)。
概要 築地本願寺は東京都中央区築地にある浄土真宗本願寺派の寺院で、本願寺築地別院ともいう。
1617年(元和三年)、京都西本願寺の別院として創建されたのが始まりで、明暦の大火後現在地に移った。
江戸時代に建てられた本堂は1923年(大正十二年)の関東大震災で倒壊し、現在はその後再建された古代インド様式の珍しい本堂が建つ。
また、その左右には宿泊施設や飲食店の入る伝道会館が建ち、遠方からの参拝者にも対応している。
主な行事には、元旦会(1月1日)、灌仏会(4月8日)、宗祖降誕会(5月21日)、盆踊り(8月初旬)、報恩講(11月11~16日)、除夜会(12月31日)がある。
※築地本願寺に御朱印はありません。代わりのスタンプなら置いてあります。
見どころ 九条武子歌碑本堂パイプオルガン間新六供養塔
拝観時間 4月-9月→6時~17時30分、10月-3月→6時~17時
拝観料 境内自由
サイト http://tsukijihongwanji.jp/
住所 東京都中央区築地3-15-1

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築地本願寺の見どころ

九条武子歌碑

九条武子(1887-1928年)は西本願寺第二十一世門主明如の次女で歌人であり、築地本願寺内に住み慈善事業に尽くしたことでも知られる。
境内には、「おほいなるものの ちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」という武子の歌を刻んだ石碑が建てられている。

本堂

東京帝国大学や早稲田大学の教授を務めた建築家の伊東忠太(1867-1954年)の設計で、1934年(昭和九年)に完成。
古代インドの仏教寺院建設を基調にイスラム建築や西洋建築を取り入れた独特なデザインとなっており、一般的に想像される日本のお寺とは全く趣を異にした外観を呈する。
階段の手すりなど様々なところに施された動物の彫刻も面白い。2014年(平成二十六)に国の重要文化財に指定。
内部には本尊の阿弥陀如来像、親鸞聖人画像、聖徳太子像、勝如上人御影、七高僧御影などが納められている。

パイプオルガン

本堂には1970年(昭和四十五年)に公益財団法人仏教伝道協会から寄贈されたという巨大なパイプオルガンが置かれており、結婚式や講演会で使われる他、毎月最終金曜日にはランチタイムコンサートが開催され一般人でも無料で鑑賞することができる。

間新六供養塔

間新六は吉良屋敷討ち入りをした赤穂浪士47人の一人で、事件後ほかの浪士と共に切腹したが、義兄の中堂又助が遺体を引き取り中堂家菩提寺である築地本願寺に葬ったため1人だけ泉岳寺に埋葬されていない(墓碑のみ)。
境内には他にも、江戸時代の眼科医土生玄碩(1762-1848年)や画家・俳人の酒井抱一(1761-1829年)の墓がある。

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歴史

本願寺では顕如の死後、長男の教如と三男の准如が跡目を争い、豊臣秀吉の裁定で准如が第12世に決まったが、1602年(慶長七年)、徳川家康が教如に土地を与えて寺院(=東本願寺)の設立を促したため教団は分裂した。
1617年(元和三年)、その准如が西本願寺の別院として浅草近くの横山町(現在の日本橋横山町辺り)に創建して、関東における本願寺派の拠点としたのが当寺の始まり。
1657年(明暦三年)、明暦の大火によって伽藍を焼失したうえ幕府の区画整理のために元の場所での再建が許されず、代わりに現在地が与えられた。
しかしそこはまだ干潟のような状態の土地であり、佃島の門徒が中心となり埋め立て工事が行われ(これによりこの土地が築地と呼ばれるようになったという)、1679年(延宝七年)本堂が再建された。
この本堂も1923年(大正十三年)の関東大震災で失われ、現在は1934年(昭和九年)再建の建物が建つ。

 
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