金閣寺(鹿苑寺)

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基本情報

知名度 ★★★★★
平均評価


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種類 寺院(臨済宗相国寺派)
アクセス 各駅からバスで「金閣寺道」または「金閣寺前」下車、徒歩3分。駐車場あり(一時間300円)→詳細
概要 金閣寺は京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で、正式には鹿苑寺という。
室町幕府第三代将軍足利義満が1397年(応永四年)より営んだ北山殿が前身で、後に夢窓疎石を開山に招き禅寺に改められた。通称の由来ともなっている金閣はあまりにも有名で、室町時代前半の北山文化を代表する建造物として知られる。
「古都京都の文化財」の一部として1994年(平成六年)には世界遺産に登録されている。
見どころ 金閣庭園安眠沢夕佳亭不動堂方丈大書院陸舟の松銀河泉龍門滝
拝観時間 9時~17時
拝観料 大人(高校生以上)400円、小・中学生300円
サイト http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html
住所 京都府京都市北区金閣寺町1

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金閣寺の見どころ

金閣

金閣寺の名前の由来ともなっている金箔で覆われた舎利殿。
1398年(応永五年)に足利義満の営んだ北山山荘に建てられたのが始まりで、最初は舎利殿、重々殿閣、三重殿閣と呼ばれていがやがて金閣と称されるようになった。
応仁の乱でも焼けることは無く残っていたが、1950年(昭和二十五年)7月2日未明に放火により全焼。この時、足利義満像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの貴重な仏像も焼失した。犯人は大谷大学の学生で見習い僧だった林承賢で、この事件は三島由紀夫の「金閣寺」や水上勉の「五番町夕霧楼」のモデルとなっている。
現在の建物はその後の1955年(昭和三十年)に京都府や地元経済界の支援を受けて再建されたもので、明治期に修理がなされた際の詳細な図面が残されていたこともありかなり正確に再現できたという。
金箔は元の5倍の厚さに張り替えられたが、劣化が進み1987年(昭和六十二年)にも張り替えられている。
建物は三層からなる構造で、法水院と称され初層は寝殿造風でこの階だけは金箔が貼られず白壁である。また初層には漱清と呼ばれる釣殿風の切妻造の建物が付属する。
潮音堂と称する2層目は武家造風に造られており、究竟頂と呼ばれる3層目は禅宗仏殿造となっている。この2層と3層には漆の上に金箔が張られており、屋根は椹(サワラ)の薄い板を何枚も重ねた柿葺で、鳳凰が飾られている。
高さは約12.5m、大きさは初層と二層目が約11.7m×8.5mの長方形で、三層目だけが約5.4m×5.4mの正方形となっている。
内部は非公開だが、初層には宝冠釈迦如来坐像と足利義満坐像、2層目には観音菩薩坐像(岩屋観音)と四天王像、3層目には仏舎利が安置されているという。
武家文化と公家文化が融合し、それに禅宗の影響が加わったのが特色とされる北山文化を代表する建造物。

庭園

金閣の周囲には約6,600㎡(約2千坪)の鏡湖池を中心とした池泉回遊式の庭園が広がる。
西園寺家の庭園を受け継いだ足利義満が大幅に改造して作ったもので、鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々が浮かび、畠山石、赤松石、細川石など守護大名たちから寄贈させた奇岩名石が並ぶ。
金閣前の小島にある石は「九山八海石」と名づけられており、須弥山(仏教の宇宙観で、世界の中心に位置するという巨大な山)を囲む九つの山と八つの海(=九山八海石)を象徴させている。
約92,400㎡(2万8千坪)の敷地が鹿苑寺庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定されている。

安眠沢

鏡湖池の北側にある池で、西園寺公経が造営した池がそのまま残されているものだといい、池の中の小島には、西園寺家の鎮守と伝えられる白蛇塚という五輪の石塔がある。

夕佳亭

1624年(寛元元年)に金閣寺の住持となり傾きかけた金閣や庭園を復興した鳳林承章が、後水尾上皇を迎えるために茶道家の金森宗和に命じて造らせた茶室。
明治の初めに火災で焼失しており、現在の建物は1874年(明治七年)に再建されたもの。1997年(平成九年)にも解体修理が行われており、見た目は新しい。数奇屋造りの3帖の茶席で、南天の床柱と萩の違い棚で有名。

不動堂

出口付近に位置するお堂。
建物は天正年間(1573~91)に宇喜多秀家によって建てられたもので、金閣寺の中で最も古い建造物となっている。
堂内には弘法大師が自刻と伝えられる不動明王立像(石不動)を安置するが、秘仏であり、2月の節分と五山送り火の8月16日にのみ公開される。

方丈

唐門の前に建つ建物で、1678年(延宝六年)に後水尾天皇の寄進で再建されたもの。隣には明応・文亀年間(1492年~1504年)の建造とされる庫裏がある。内部は基本非公開。

大書院

方丈の奥に位置する建物。
伊藤若冲による障壁画で知られたいたが、保存のため1984年(昭和五十九年)に本山である相国寺の承天閣美術館に移され、現在は日本画家の加藤東一によって新たに描かれた襖絵がある。内部は基本非公開。

陸舟の松

方丈の北側にある松で、足利義満の手植えと伝えられており、善峰寺の遊龍松、宝泉院の五葉松と共に京都三松の一つとされる。

銀河泉

金閣の北側にある湧き水で、足利義満がここの水を使って茶を沸かしたと伝えられている。

龍門滝

鯉が滝を登ると龍になるという中国の伝承に基づいて造られた滝で、鯉に見立てた鯉魚石が置かれている。

御朱印・御朱印帳

種類 ①「舎利殿」の御朱印、②「石不動尊」の御朱印、③「北山殿」の御朱印。
入手場所 不動堂右手の朱印所。
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 数種類あり。
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金閣寺の歴史

1224年(元仁元年)、西園寺(藤原)公経がこの地に氏寺として西園寺を建立して、山荘・北山第を営んだのが始まりで、これらは西園寺家の人々に受け継がれていった。しかし、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が失脚すると財政難から荒廃し、それを1397年(応永四年)に足利義満が河内の領地と交換に譲り受けた。
1394年(応永元年)に征夷大将軍を義持に譲りながらも実権は持ち続け絶大な権力を握っていた義満は壮大な北山殿の造営を開始し、1398年(応永五年)にはこの地へ移り住み、更に政治中枢の機能を全て集約させここを中心として政治をおこなった。
1408年(応永十五年)に義満が亡くなると、北山殿は室町幕府四代将軍足利義持に受け継がれ、ついで北山院と呼ばれた義光の妻日野康子の住居となった。
1419年(応永二十六年)、北山院が亡くなると、義持はこの山荘を禅寺とすることを決め、開山に無窓疎石を招いて鹿苑寺が誕生した。寺名は足利義満の法名鹿苑院殿に基づくが、金箔の貼り詰められた建物のインパクトは大きかったらしく、この頃から金閣寺と呼ばれていたという。
その後、室町幕府の歴代将軍の保護で繁栄したが、1467年(応仁元年)に発生した応仁の乱では西軍の陣となり、仏殿、書院など多くの建物が焼け寺は荒廃することとなった(この時金閣は運よく焼けずに残っている)。
荒廃した寺の再興は金閣寺独住一世である西笑承兌(1548~1608)によって開始され、鳳林承章や文雅慶彦へ引き継がれていき、江戸時代代中期までには復興が完了し寺観が整った。
明治の初めには廃仏毀釈の影響で多くの寺領を失い経済的に苦境に立たされることとなったが、十二世住持貫宗承一が1894年(明治二十七年)に一般の拝観者を受け入れることを決め、日本が裕福になると共に多くの参拝客が訪れるようになり、今日では京都を代表する観光スポットのひとつとなっている。
金閣は前述のように1950年(昭和二十五年)に放火で失われたがすぐに建て直され、1994年(平成六年)には「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。

 
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