二条城城内マップ
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基本情報
知名度 | ★★★★★ |
平均評価 | |
種類 | 城 |
アクセス | 市営地下鉄二条城前駅下車すぐ、市バス二条城下車すぐ。駐車場あり(乗用車800円/2時間)→詳細 |
概要 |
二条城は京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある城。 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が上洛時の宿所として建てたもので、1603年(慶長八年)に完成した。 1867年(慶応三年)には大政奉還の舞台となり、その後、宮内省の所管となっていたが、1939年(昭和十四年)から京都市が管理している。 二の丸御殿6棟は国宝に指定されており、1994年(平成六年)には古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録された。 |
見どころ | 唐門、二の丸御殿、二の丸庭園、本丸御殿、本丸庭園 |
拝観時間 | 8時45分~16時(閉門は17時)、二の丸御殿観覧→9時~16時、年末年始(12月26日~1月4日)、2月・1月・7月・8月の毎週火曜日(休日の場合翌日)は休城。 |
拝観料 | 一般→600円、中高生→350円、小学生→200円 |
サイト | http://www2.city.kyoto.lg.jp/ |
住所 | 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 |
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二条城の見どころ
唐門
二の御殿の正門となっている、切妻造桧皮葺の四脚門。
竹虎、雲龍、唐獅子などの豪華絢爛な彫刻が一面の施されており、2013年(平成二十五)に修復工事が行われたばかりなのでまだ新しく光輝いている。
二の丸御殿
1624年(寛永元年)から1626年(寛永三年)の間に新築ないしは改築された建物郡で、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟から成る。
遠侍は一番手前に位置するもっとも規模の大きな建物で、大名などの来客の待合室や使用人の詰所として使われていたところ。
大広間は将軍と大名などが会談するのに使われていた場所で、内部には狩野探幽作の襖絵など、豪華な装飾が施されている。1867年(慶応三年)に大政奉還が発表されたのもこの場所である。
黒書院も大名との面談に使われたが、こちらは親藩や譜代大名など近しい間柄の人物と会う時に使用されたといい、より落ち着いた雰囲気となっている。襖絵は狩野尚信の作。
白書院は将軍の寝室や居間として使われていた建物で、大広間などと比べると地味な装飾となっている。
二の丸庭園
二の丸御殿の南西に位置する池泉回遊式庭園で、八陣の庭とも呼ばれる。
徳川家康が二条城を築いた時に一緒に作られたが、1626年(寛永三年)の後水尾天皇の行幸にあわせて作庭の名手小堀遠州によって大幅に改築されている。
池には蓬莱島、亀島、鶴島が浮かぶ。国の特別名勝に指定。
本丸御殿
江戸時代中期には五層の天守閣が本丸(内堀の内側)に建っていたが、1750年(寛延三年)に落雷で焼失し、その後は本格的に再建されることはなく、幕末には将軍徳川慶喜の居室が建てられたがそれも1881年(明治十四年)に撤去された。
現在たっている建物は、1893年(明治二十六年)に京都御苑内にあった桂宮邸を移築したもの。
本丸庭園
元あった庭園は1788年(天明八年)の大火で燃え、徳川慶喜の居室が建てられると茶庭風の庭園が造られたが、それも建物と同時に1881年(明治十四年)に撤去された。
その後、桂宮邸を移築に伴い枯山水庭園が造られ、1895年(明治二十八年)の明治天皇行幸を機に改造され、翌96(明治二十九年)に完成したのが現存の庭園。
西洋の影響を受けた芝庭風築山式庭園で、一面に芝を敷き、東南隅には月見台(築山)を配し、曲線的な園路が巡らされている。
二条城の歴史
1601年(慶長六年)、関ヶ原の戦いに勝利し強大な権力を握った徳川家康は、上洛時の宿所として諸大名に二条城の築城を命じ、1603年(慶長八年)に現在の二の丸に相当する部分が完成した。
1611年(慶長十六年)にはここで家康と豊臣秀頼の会見が行われ、家康はこの時豊臣氏を滅ぼすことを決意したとも言われており、1614年(慶長十九年)の大阪冬の陣や翌年の夏の陣では幕府軍の本拠地として利用された。
1624年(寛永元年)からは三代将軍徳川家光によって改築が進められ、26年(寛永三年)には後水尾天皇の行幸が行われた。
1634年(寛永十一年)には家光が30万人といわれる軍勢を引き連れて入城を果たしたが、以後ながらく将軍は訪れることはなく老朽化が進んだ。
1750年(寛延三年)には、落雷で天守を焼失し、1788年(天明八年)には市中の大火を貰い本丸御殿などが焼けたが、失われた建物は再建されることはなかった。
1863年(文久三年)、朝廷の要請に応じて将軍徳川家茂が上洛を果たし、約230年振りに将軍を迎え入れ、1867年(慶応三年)には将軍を継いだ徳川慶喜によって二の丸御殿大広間に諸藩の大名が集められて大政奉還が発表された。
明治になると初め太政官代が置かれ、京都府庁舎を経て陸軍省の所管となり、1884年(明治十七年)からは宮内省の所管となった。1939年(昭和十四年)に京都市に下賜され、以後は京都市の管理するところとなった。
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