寛永寺

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基本情報

知名度 ★★★
平均評価


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種類 寺院(天台宗)
アクセス JR京浜東北線・山手線鶯谷駅から徒歩6分。JR・東京メトロ上野駅から徒歩15分。駐車場なし。
概要 寛永寺は東京都台東区上野桜木にある天台宗の寺院で、正式には東叡山寛永寺円頓院という。
1625年(寛永二年)、徳川家康のブレーンであり秀忠・家光にも仕えた天台宗の僧天海大僧正を開山として創建。
芝の増上寺と共に徳川将軍家の菩提寺となり大伽藍と多数の子院を誇ったが、幕末の上野戦争によって多くの建物が焼失し、その広大な敷地の多くは没収されて上野公園などになり大幅に規模を縮小した。
現在の本堂は上野公園の北東に位置するが、公園内や上野動物園内にも遺構や堂宇が散在しているのでここではそれらついてもまとめて書いている。
見どころ 根本中堂清水観音堂歴代徳川将軍御霊廟不忍池弁天堂上野大仏梵鐘旧寛永寺五重塔
拝観時間 根本中堂は9時~16時
拝観料 境内自由
サイト http://www.kaneiji.jp/
住所 東京都台東区上野桜木1-14-11

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寛永寺の見どころ

根本中堂

寛永寺の本堂に当たる建物の事。
1698年(元禄十一年)に建てられた元の建物は1868年(慶応四年)の新政府軍による攻撃で破壊され、現在は川越喜多院の本地堂(1638年の建立)を移築した建物が建つ。
堂内には最澄自刻と伝えられる薬師瑠璃光如来像(重文)を安置するが、秘仏で拝観することはできない。

清水観音堂

京成上野駅近くにあるお堂で、1631年(寛永八年)に天海によって建てられたものが焼けずに残っている。
その名の通り京都清水寺を模して造られており、規模は小さいが同じように舞台を持つ。
内部にはやはり清水寺から迎えた恵心僧都作と伝えられる千手観音座像を安置する。普段は秘仏だが2月初午の日の大般若経転読時には開帳される。

歴代徳川将軍御霊廟

芝の増上寺と共に徳川将軍家の菩提寺であった寛永寺には4代家綱公、6代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の将軍が葬られている。
霊廟の建造物は1945年(昭和二十年)の空襲でほとんど焼け、厳有院霊廟勅額門・水盤舎など一部のみ残る。
廟内は基本的に非公開(勅額門は外からも見れる)だが、特別公開が行われることもある。重要文化財に指定。

不忍池弁天堂

不忍池に浮かぶ中之島に建つ弁天堂。
天海は寛永寺を創建する際に皇居の鬼門に建つ比叡山延暦寺をモデルとして江戸城の東北にあたるこの地を選び、不忍池を琵琶湖に見立てたといわれ、弁天堂は琵琶湖の竹生島にある宝厳寺弁財天を勧請して建てられた。
当初のお堂は1945年(昭和二十年)の空襲で失われ、現在は1958年(昭和三十三)に再建された建物が建つ。

上野大仏

寛永寺境内には1631年(寛永八年)に鋳造された像高約6m大仏(釈迦如意来座像)があったが、1923年(大正十二年)の関東大震災で頭部が落ち、第二次大戦中の金属不足で胴体が供出されたため現在は顔面のみ残る。
顔面のみの異様な大仏の隣には大仏山パゴダがあり、上野東照宮にあった薬師三尊像が安置されている。

梵鐘

上野大仏近くの時鐘堂に掛かる鐘の事で、1787年(天明七年)の鋳造。
江戸時代には周辺に時間を知らせる「時の鐘」として機能しており、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という芭蕉の句も残されている。現在も朝昼夕の1日3回鳴らされる。

旧寛永寺五重塔

1631年(寛永八年)に初めて建てられ、現存するのは1639年(寛永十六年)の再建。
1958年(昭和三十三年)に都に寄贈されたため現在は東京都の所有となっており、上野動物園内に位置するので間近で見るには動物園に入場する必要がある。
高さ約36m、初層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四仏を安置する。重要文化財に指定。

開山堂(両大師)

国立科学博物館の隣に位置する建物で、寛永寺の開山慈眼大師天海と天海が尊敬していた平安時代の天台宗の僧慈惠大師良源を祀ることから両大師と呼ばれる。
現存の建物は1993年(平成五年)の再建。隣には葬儀場輪王殿がある。

御朱印

種類 ①「瑠璃殿」の御朱印、②「両大師」の御朱印、③「薬師如来」の御朱印、④「薬師如来」の御朱印、⑤「千手観世音」の御朱印、⑥「辯才天」の御朱印。
入手場所 ①は根本中堂、②は両大師(輪王寺)、③と④は上野大仏、⑤は清水観音堂、⑥は不忍池辯天堂
値段 1件300円
オリジナル御朱印帳 寺紋入りのシンプルな御朱印帳があります。また清水観音堂にもオリジナルの御朱印帳があります。

歴史

寛永寺の開山天海(1536~1643年)は会津出身の天台宗の僧だが室町時代第11代将軍足利義澄の落胤であるとか生き残った明智光秀などと噂される怪人物であり、徳川将軍家の帰依を受けて幕府の政策にも深く関与した。
家康の死後も秀忠・家光に仕え、江戸に天台宗の拠点をつくることを目指して1625年(寛永二年)寛永寺を創建。
寺地は伊勢津藩主の藤堂高虎などの屋敷があった場所を幕府から与えられ、比叡山に対して東叡山と号した。
その後次々と伽藍が建立され、その敷地は現在の上野公園全域を超える江戸切っての大寺院に発展し、3世山主に後水尾天皇第3皇子の守澄法親王がなって以来、門跡寺院(皇族や摂関家から住持に迎える寺院)となり高い寺格を誇った(山主は日光山万願寺や比叡山延暦寺の山主も兼ねて輪王寺宮と呼ばれた)。
しかし1868年(慶応四年)の上野戦争(旧幕府軍と薩長などの新政府軍との戦い)で戦場となり多くの建物が焼失。さらに親幕府勢力だったため領地は没収され一時はほぼ廃寺状態になった。
その後大幅に規模を縮小して再興され、関東大震災や第二次大戦中の空襲でもダメージを受けたが持ちこたえ現在まで存続している。

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アクセス(根本中堂)

鶯谷駅から

鶯谷駅南口を出て右へ行き、突き当りを右折。そのまま真っすぐ歩けば入り口が見えてくる。所要時間は約6分。

上野駅から

上野駅上野公園口を出て目の前の道路を鶯谷方面にひたすら歩く。所要時間は約15分。

 
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